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2018年2月 7日 (水)

第55番目 高良大社

高良(コウラ)大社は、延喜式では明神大社であって筑後国一ノ宮として尊敬されています。祭神は高良玉垂(コウラタマタレ)命で、筑後川を望む高良山(312m)の山上に鎮座しています。高良は高麗(高句麗)のことでもあり、百済に続いて668年に滅亡した高句麗に関係する人たちが祭祀する御霊を呼び垂らす巫覡の名称が神名に変化したのが本来であったのでしょう。また、摂社に水分神社があり、地名が御井(ミイ)であるところから、水の神にも関係するかも知れません。

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付近に御塚古墳や権現塚古墳を含む古墳群があり、古来より筑後川の下流の三潴(ミズマ)郡久留米周辺に番居した水沼(ミヌマ、水間とも)君という豪族の奥津城と考えられており、当神社も水沼君氏によって祭祀されていたと思われます。水沼氏は筑紫氏の支族であるらしく、一族内での忌部の役割をしていたふしもあります。それゆえ、元は水の神であった氏神が、後には人格神に変わったとも考えられます。6世紀の磐井の乱の後には、さらに宗像氏や物部氏とも関係をもって祭祀氏族として生き延びたと考えるのはゆきすぎでしょうか。

Photo_3 渡来人の入植者が多く、継続的に半島から新しい情報や物品が得られた筑紫の地域では、遠いヤマト政権に対してはたえず複雑な感情をもっていたとみられ、磐井の乱はその反抗心の表れなのでしょう。しかし、同時に地域内にもライバル意識が交錯しており、磐井の乱も当神社付近の戦いで一挙に終わってしまったと考えられます。最初、近江臣毛野が派遣されたときには、戦いらしい戦いは行われず、後に物部アラカヒがやってきて決着をつけたという記録からも、渡来系豪族同士のつながりが深かったと思われます。さらに、高麗の御霊を奉るようになったのも、戦いの後の鎮魂のためだとするのは深読みしすぎかも知れませんけれど。(上の写真は磐井の墓と云われる岩戸山古墳(全長約135m))

Photo_5 (磐井の墓の石人石馬)

高良大社 久留米市御井町

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