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2018年2月14日 (水)

隼人(ハヤト)のはなし

古代の南九州の薩摩、大隈、日向に盤居した隼人や熊襲(クマソ)の人たちは、異族として扱われていました。しかし、人種的には他地域の倭人と変わるところはなく、備前風土記にも容貌や風俗は値嘉(チカ)島(五島列島)のアマ人に似るとの記載があり、海民の一種であったと考えられます。もともとクマとソ(自称か他称かはわからない)と呼ばれた地域に住んでいたのでしょうが、シラス台地といわれる地勢は耕作には不向きで多くの人口を養えない過疎地域であったため、半島からの影響が強い北九州に較べて、独自の文化圏を形成していたのでしょう。6400年前に鬼境島カルデラ火山の大噴火により一帯が壊滅状態になり、隼人はそれ以後に入植した人達だと考えられます。

Photo04 海民であっても数に頼れないため、北九州や瀬戸内海に出るかわりに、琉球、五島列島、韓国の済州島などの離島との交易があったのかも知れません。それゆえ、鉄製武具や馬なども当時の水準で揃えており、筑紫連合やヤマト政権の侵略軍とも対等に戦えたのだといえます。地域性の高い地下式横穴墓(右の写真)や板石積石棺墓も朝鮮半島文化との交流の影響だとも云われています。

熊襲(クマソ)と恐れられていた人々も、はやく4世紀末には部分的にヤマト政権に服従した人たちがいて、隼人(ハヤヒト)と呼ばれるようになります。ハヤとは枕詞のチハヤブル(霊ハヤ振る)という神がかりの力をいい、速玉神社や速谷神社などにも使われています。あるいは、後に隼人が近習として宮城を守るさいに犬の声を真似た吠声(ハイセイ)を使ったと伝えられるように、戦いのさいに大声で囃(ハヤ)したてて敵を威嚇する行為もあったかも知れません。

Photo_11(隼人の盾)

帰順した隼人はその戦闘力を買われ、飛鳥奈良時代には畿内へ移住させられて、宮城や要地の守備にあたったといわれています。宮中行事になった隼人舞は、元は服従儀式でもあったと考えられています。奈良盆地の南端の吉野には吾田(アダ)の鵜飼人として、南山城の大住(オオスミ)や河内の萱振(八尾市)などに住み、近衛部民として任務にあたったと記録されています。古事記には、反正天皇紀にソバカリという隼人が暗殺に加担したという記事もみられます。

戦前にいわれたようなインドネシア系というのは間違いです。数千年前には中国の長江流域にいた、青蓮崗文化、良渚文化、屈家嶺文化を担った人々の一部が、民族間の抗争に敗れて、あるものは南のフィリピン、マレーシア、インドネシアへと移動し、あるものは台湾から、琉球、日本列島へと移動してきたと考えられ、それらの文化が遠い記憶として残されており、言語や宗教観の点で似たような伝承があるため誤解されたのだと思います。

日本列島の文化は、新石器時代に始まった中国の諸文化、上記の長江域文化に加えて龍山文化、仰韶文化、大汶口文化、紅山文などが、北はオホーツク沿岸から、西は朝鮮半島や日本海を越えて、南は琉球諸島を経由して入り込み、時代や民族の違いにより複雑に混合した文化なのではないでしょうか。

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