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2018年2月24日 (土)

第58番目 都万神社

都万(ツマ)神社は、延喜式では日向国の四座の小社のひとつですが、国府や国分寺が近くにあって日向の中心的な神社であったと考えられます。現在の祭神は、木花開耶(コノハナサクヤ)姫といわれていますが、別の名を神阿多津(カムアタツ)姫といい、阿多隼人が祭祀する神、あるいは、その神を奉る巫女である阿多津姫であったとも言えます。女性の祭神ということは、元より神奉りをしていたのが女性の巫覡であって、そのため祭神の名が伝承に残る上記の姫へと変わっていったのでしょう。

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ツマというのは端のことで、アヅマが日の上がる(明ける)ツマであり、サツマが日の下ぐる(去る)ツマをいうのでしょう。一番古いヤマト政権側の記録では、九州は筑紫国、豊国、肥国(火国)、熊襲国という4つの地域からなっていました。一説には熊襲はクマとソの2つの区域で構成されると云われており、日向はソの域内で、古くは児湯県(コユノアガタ)と呼ばれており、諸県君(モロアガタノキミ)という豪族が盤居していました。諸県君は、本来は熊襲の一族であったのが、はやく4世紀の末までにはヤマト政権に帰順して、県主(アガタヌシ)として九州平定に貢献したため、その独自の信仰が記紀神話にも反映される結果となったのではないでしょうか。日本書記には、諸県君牛諸の娘の髪長姫(カミナガヒメ)がホムダワケ大王(応神天皇)の妃となったと記載があります。諸県君は、後には日向国造となり、当神社の祭祀氏族として勢力を誇ったのでしょう。

Photo_2 近くには、大小311基もの古墳からなる有名な西都原古墳群(左の写真)があり、ほぼ古墳時代の最初から最後までの3世紀末から7世紀中ごろまで継続した様子がうかがえます。一番大きな前方後円墳は女狭穂(メサホ)塚で、全長が176mあり九州最大です。隣にある男狭穂塚と共に5世紀初めの築造と思われ、諸県君の父と娘の墓と推測しても時期的には齟齬はありません。ただ、古墳群が最初から最後まで諸県君一族の奥津城であったかは疑問が残ります。


都万神社: 宮崎県西都市妻

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