« 第53番目 筑紫神社 | トップページ | 第54番目 与止日女神社 »

2018年1月31日 (水)

筑紫の大宰府

大宰府はオオキノミコトモチノツカサと訓し、最初は推古紀の604年に福岡市の那の津に近い三宅(屯倉)付近にあったと云われています。九州北部域は日本で最初のクニが生まれた先進地域であったため、豊かな古代の遺跡が残っており、大宰府が「遠の朝廷(トホノミカド)」と呼ばれたのは当然のことだったのでしょう(下の写真は大宰府跡)。

天(アマ)ざかる 鄙(ヒナ)に五年(イツトセ) 住ひつつ 都のてぶり 忘らえにけり (巻5-880)Photo

筑紫大宰(ツクシノミコトモチ)という官職が定められたのは7世紀の初めころとみられ、対外交渉が最大の役目だと考えられています。ミコトモチは元はミコトマチ(御言待ち)で神のお告げを唱える巫覡だったのでしょうが、天皇(オオキミ)の命令を告げる役人に変わったと思われます。

大夫(マスラヲ)と 思へる我や 水茎(ミズクキ)の 水城(ミズキ)の上に 涙拭(ナミタノゴ)はむ (巻6-968)

筑紫が筑前と筑後とに分かれたのは663年の白村江での敗戦の後で、同時に大宰府は現在の地に移されて、防禦のための水城(下の図)や山城が築かれました。当時多くの百済の遺民が渡来したようで、彼らの技術が水城や山城の構築に使われたのは言うまでもありません。百済を滅ぼした後に、新羅は唐への警戒から日本へ擦り寄ってきます。やはり唐という大国は東夷の国々にとっては非常な脅威でした。Photo

筑紫は上古にはツクシと呼ばれていたようで、神庭に植えた槻(欅)の心柱に関係があるかもしれません。ツキとは神が依り憑(ツ)く木という意味なのでしょう。タカギの神はその木に降りる神だと思われ、タカミムスヒ命として宮中にも奉られています。聖徳太子の父である用明天皇の宮は磐余池辺双槻宮(イワレノイケヘノナミツキノミヤ)と云われています。2本の槻の木が植えられた場所だったのでしょうか。

Photo_3 斎明天皇(皇極天皇)はアメノトヨタカライカツヒタラシヒメという和風諡名をもちますが、威(イ)かつ霊(ヒ)を神降ろしする巫女王でもあったのです。女帝は岡本宮から両槻(フタツキ)宮へ移りますが、亡くなったのは百済救援の直前に筑紫の朝倉宮だと云われています。同じ記述の中で「山の上から鬼が葬儀を見ていた」とあり、女帝が神がかりの力を有していたと周囲で考えられていたのでしょう。(右の写真は斎明天皇の御陵と考えられる明日香の牽牛子塚古墳の石室)

なお、魏志東夷伝の高句麗の項には「天を祭り…木隧(燧)を神座に置く」と記載され、馬韓の項には「ソトと呼ばれる聖地に大木を立てて鈴や鼓を懸けて祀る」と記述されています。また朝鮮の「三国遺事」という書には、檀君神話の中に「天神の子の桓雄が太伯山頂の神檀樹の下に降った」と伝えられています。

« 第53番目 筑紫神社 | トップページ | 第54番目 与止日女神社 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 筑紫の大宰府:

« 第53番目 筑紫神社 | トップページ | 第54番目 与止日女神社 »