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2018年1月28日 (日)

第53番目 筑紫神社

筑紫(ツクシ)神社は、延喜式の明神大社であり、現在の祭神は白日別(シラヒワケ)命と五十猛(イタケル)命とされていますが、イタケル神は、紀伊の伊太祈曽(イタキソ)神社の祭神であり、渡来神ともいわれており、後に勧請されたのでしょう。

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古事記には、九州(筑紫島)のことを「この嶋身ひとつにして、面(オモ)4つあり。面毎に名有り。かれ筑紫(チクシ)の国を白日別といい...」と記載されています。他の3国は、豊(トヨ)の国、肥(ヒ)の国、熊襲(クマソ)の国です。およそ大化改新の以前のころまでは、筑紫君(ツクシノキミ)が九州で勢力を誇っていたと思われます。筑紫君は、八女地域が本拠地であったらしく、5世紀にヤマト政権が朝鮮半島に兵を送ったころから力を伸ばし始め、6世紀中(527年)に一族の首長である磐井が反乱を起こしたときが最盛期であったのでしょう。乱の後、水間君や肥君らが影響力を増しますが、7世紀ころまで筑紫国造として勢力を温存していました。

思はぬを 思ふと言うはば 大野なる 三笠の杜(ミカサノモリ)の 神し知らさむ (巻4-561)

白日別とは元は一族の祭祀を取り仕切る長の名称であって、それが後に彼が奉っていた祭神の名となったとも考えられます。というのも別(ワケ)というのは神や大王のワキに随うという古い尊称と考えられ、古い天皇の称号にもワケが使われていました。12代の景行天皇はオホタラシヒコオシロワケ、履中天皇はイザホワケ、反正天皇はミヅハワケと記録されています。

祭神は古くは城山の山頂に祭られていたという伝えもあり、そこで神降ろしを行っていたと思われ、渡来人の多かった北九州一帯に広く信仰圏があったのでしょう。天孫降臨の一書にある、「筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂のクシフルタケ...」というのは、白日別が神を降臨させる場所にまつわる故事であったのかも知れません。筑紫の枕コトバである「シラヌヒ」も、シラヒの神と関係があるのでしょうか。

Photo_3 なお、神社のすぐ南にある五郎山古墳は石室内に装飾壁画(左の写真)をもつ6世紀後半の古墳であり、筑紫君の奥津城である八女古墳群には、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳(全長144m)を始め、九州で最も古い装飾古墳であるといわれる5世紀中ころの石人山古墳(107m)があります。



筑紫神社; 福岡県筑紫野市原田字森本 

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