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2018年1月

2018年1月31日 (水)

筑紫の大宰府

大宰府はオオキノミコトモチノツカサと訓し、最初は推古紀の604年に福岡市の那の津に近い三宅(屯倉)付近にあったと云われています。九州北部域は日本で最初のクニが生まれた先進地域であったため、豊かな古代の遺跡が残っており、大宰府が「遠の朝廷(トホノミカド)」と呼ばれたのは当然のことだったのでしょう(下の写真は大宰府跡)。

天(アマ)ざかる 鄙(ヒナ)に五年(イツトセ) 住ひつつ 都のてぶり 忘らえにけり (巻5-880)Photo

筑紫大宰(ツクシノミコトモチ)という官職が定められたのは7世紀の初めころとみられ、対外交渉が最大の役目だと考えられています。ミコトモチは元はミコトマチ(御言待ち)で神のお告げを唱える巫覡だったのでしょうが、天皇(オオキミ)の命令を告げる役人に変わったと思われます。

大夫(マスラヲ)と 思へる我や 水茎(ミズクキ)の 水城(ミズキ)の上に 涙拭(ナミタノゴ)はむ (巻6-968)

筑紫が筑前と筑後とに分かれたのは663年の白村江での敗戦の後で、同時に大宰府は現在の地に移されて、防禦のための水城(下の図)や山城が築かれました。当時多くの百済の遺民が渡来したようで、彼らの技術が水城や山城の構築に使われたのは言うまでもありません。百済を滅ぼした後に、新羅は唐への警戒から日本へ擦り寄ってきます。やはり唐という大国は東夷の国々にとっては非常な脅威でした。Photo

筑紫は上古にはツクシと呼ばれていたようで、神庭に植えた槻(欅)の心柱に関係があるかもしれません。ツキとは神が依り憑(ツ)く木という意味なのでしょう。タカギの神はその木に降りる神だと思われ、タカミムスヒ命として宮中にも奉られています。聖徳太子の父である用明天皇の宮は磐余池辺双槻宮(イワレノイケヘノナミツキノミヤ)と云われています。2本の槻の木が植えられた場所だったのでしょうか。

Photo_3 斎明天皇(皇極天皇)はアメノトヨタカライカツヒタラシヒメという和風諡名をもちますが、威(イ)かつ霊(ヒ)を神降ろしする巫女王でもあったのです。女帝は岡本宮から両槻(フタツキ)宮へ移りますが、亡くなったのは百済救援の直前に筑紫の朝倉宮だと云われています。同じ記述の中で「山の上から鬼が葬儀を見ていた」とあり、女帝が神がかりの力を有していたと周囲で考えられていたのでしょう。(右の写真は斎明天皇の御陵と考えられる明日香の牽牛子塚古墳の石室)

なお、魏志東夷伝の高句麗の項には「天を祭り…木隧(燧)を神座に置く」と記載され、馬韓の項には「ソトと呼ばれる聖地に大木を立てて鈴や鼓を懸けて祀る」と記述されています。また朝鮮の「三国遺事」という書には、檀君神話の中に「天神の子の桓雄が太伯山頂の神檀樹の下に降った」と伝えられています。

2018年1月28日 (日)

第53番目 筑紫神社

筑紫(ツクシ)神社は、延喜式の明神大社であり、現在の祭神は白日別(シラヒワケ)命と五十猛(イタケル)命とされていますが、イタケル神は、紀伊の伊太祈曽(イタキソ)神社の祭神であり、渡来神ともいわれており、後に勧請されたのでしょう。

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古事記には、九州(筑紫島)のことを「この嶋身ひとつにして、面(オモ)4つあり。面毎に名有り。かれ筑紫(チクシ)の国を白日別といい...」と記載されています。他の3国は、豊(トヨ)の国、肥(ヒ)の国、熊襲(クマソ)の国です。およそ大化改新の以前のころまでは、筑紫君(ツクシノキミ)が九州で勢力を誇っていたと思われます。筑紫君は、八女地域が本拠地であったらしく、5世紀にヤマト政権が朝鮮半島に兵を送ったころから力を伸ばし始め、6世紀中(527年)に一族の首長である磐井が反乱を起こしたときが最盛期であったのでしょう。乱の後、水間君や肥君らが影響力を増しますが、7世紀ころまで筑紫国造として勢力を温存していました。

思はぬを 思ふと言うはば 大野なる 三笠の杜(ミカサノモリ)の 神し知らさむ (巻4-561)

白日別とは元は一族の祭祀を取り仕切る長の名称であって、それが後に彼が奉っていた祭神の名となったとも考えられます。というのも別(ワケ)というのは神や大王のワキに随うという古い尊称と考えられ、古い天皇の称号にもワケが使われていました。12代の景行天皇はオホタラシヒコオシロワケ、履中天皇はイザホワケ、反正天皇はミヅハワケと記録されています。

祭神は古くは城山の山頂に祭られていたという伝えもあり、そこで神降ろしを行っていたと思われ、渡来人の多かった北九州一帯に広く信仰圏があったのでしょう。天孫降臨の一書にある、「筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂のクシフルタケ...」というのは、白日別が神を降臨させる場所にまつわる故事であったのかも知れません。筑紫の枕コトバである「シラヌヒ」も、シラヒの神と関係があるのでしょうか。

Photo_3 なお、神社のすぐ南にある五郎山古墳は石室内に装飾壁画(左の写真)をもつ6世紀後半の古墳であり、筑紫君の奥津城である八女古墳群には、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳(全長144m)を始め、九州で最も古い装飾古墳であるといわれる5世紀中ころの石人山古墳(107m)があります。



筑紫神社; 福岡県筑紫野市原田字森本 

2018年1月24日 (水)

第52番目 志賀海神社

志賀海(シカウミ)神社は、延喜式の明神大社で、祭神は古事記にも記載されている底津綿津見(ソコツワタツミ)、中津綿津見(ナカツワタツミ)、表津綿津見(ウワツワタツミ)の海神です。志賀海は、シカノウミ、シカノワタ、シカノアマとも呼ばれ、シカノワタツミと読むことができます。ワタツミとは海神としての漁民の神だっただけでなく、航海の安全を祈る渡(ワタ)しの神でもあったのです。Photo_3

ちはやぶる 鐘(カネ)の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(スメカミ)   (万葉集 巻7-1230)

当神社は、海人氏族として有力であった阿曇(アズミ、安曇)氏が祭祀する神社で、神社の鎮座する志賀島は現在は陸続きですが、元は島であって聖地であったと考えられます。シカというのは其(シ)処(カ)の意味であって、地域の誰もが認める聖地であったに違いないのです。それゆえ、あの有名な国宝の「漢倭奴国王」の金印が、辟邪のために埋められていたのでしょう。

阿曇氏の本拠地は、志賀島の対岸の糟屋郡の阿曇郷と呼ばれた地域であり、奴(ナ)の国があった場所と重なります。配下の海人のなかには、胸形(宗像)氏と同じように阿曇目と呼ばれた文身(イレズミ)を入れていた記録もあり、魏志倭人伝の「(水人)文身し亦以って大魚水禽を厭(ハラ)う」という記述が思い出されます。弥生時代にさかのぼる古い習俗を捨てない集団がいたのでしょうか。万葉集にも、志賀の白水郎(アマ)の歌がたくさん残されており、漁(スナド)りというのは「沈没して之(魚)を取る」という今のアマ(海女)の技術を言うのでしょう。

志賀(シカ)の海人(アマ)の 火気(ホキ)焼き立てて 焼く塩の辛(カラ)き恋をも 我(アレ)はするかも (巻11-2742)

Photo_4 本殿の横の今宮社の祭神は、穂高見(ホタカミ)命と阿曇磯良(アズミノイソラ)命です。穂高見命は信濃の安曇(アズミ)郡の明神大社である穂高神社にも奉られています。阿曇磯良(イソラ)とは、顔が牡蠣のように奇怪で、神宮皇后の航海の舵取りをしたという伝承がありますが、元は志賀島の磯で神祀りをする阿曇一族のオサ(長)であった司祭者の名称だったのかも知れません。その装束が、右の神功皇后絵巻に載る顔を隠し鼓をもち亀に乗った阿曇磯良の像が示すように、鼓を叩きながら神の降臨をうながすものだったのでしょう。

志賀海神社  福岡市東区志賀島

 

2018年1月20日 (土)

第51番目 宗像大社

宗像(ムナカタ)大社は、祭神が沖津宮(沖ノ島)のタゴリヒメ神、中津宮(大島)のタギツヒメ神、辺津宮(本殿)のイチキシマヒメ神で、3座とも延喜式では明神大社です。海人の宗像氏が祭祀する漁業と海運にまつわる女神であったのでしょうが、ヤマト政権が半島との交流や外征に直接に関わるようになったころから、航海の神として重要視されるようになったと考えられており、日本書紀の神代紀には「海北道中の道主貴(ミチヌシノムチ)」と記述されています。

個人的な見解ですが、タゴリヒメとタギツヒメはたぶん元はおなじ神格で、沖ノ島と大島とが並び称されてタグ(類、比)ふ神という意味だったと思われ、それを祭祀したのが斎(イ)つく島の巫女(ヒメ)だったのではないかと考えています。つまり沖ノ島や大島にて神降ろしを行い祭祀する女性の巫覡が古くに存在しており、後になって中央政権の意向が強くなって島ヒメと呼ばれる3座の女神に変化したと思われます。

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ムナカタは胸形とも書き、上古は胸に文身(イレズミ)を入れた海人らしく、漁業や航海に長けた一族であったと云われています。カバネ(姓)が君の地方豪族であったのが、天武紀には胸形君徳善の娘が天武天皇に嫁して高市皇子を産んで、朝臣の姓を賜っています。山城や和泉にも移住した支族がおり、3人のヒメ神が奉られている宗方神社が各地にみられるのは航海を得意とした海人族の足跡なのでしょう。西の津屋崎町にある宮地嶽神社にある終末期の円墳(34m)が胸形徳善の墓といわれており、ガラス製品などの貴重な埋葬物がみつかっています。近くの奴山古墳群は、宗像氏の奥津城だと考えられます。Photo_2

2_2 沖津宮のある沖ノ島(上の写真)は、玄界灘の海中にある孤島で、4世紀から9世紀ころまでの航海の無事を祈るための祭祀が行われていた跡が残っており、世界遺産に登録されました。島全体が神聖な場所であり、今もむかしも一般の人の立ち入りが禁止されています。右の写真のようにその巨岩陰の遺跡からは多数の供物が発掘されており、海の正倉院と呼ばれています。遺物のなかに、朝鮮製や中国製がみられるのもとうぜんのことでしょう。



大き海の 波は恐(カシコ)し 然れども 神を斎(イハ)いて 船出せばいかに (巻7-1232)

宗像大社  福岡県宗像市田島

2018年1月17日 (水)

物部氏

物部氏は、古くから軍事、刑罰、治安などの役目をした中央の豪族だとされています。けれども諸地域の物部系の氏族が祀る神社の神名から判断すると、擬制色の強い氏族だということがわかります。本来は勇猛さを誇る小さな氏族の寄り集まりの集団ではないかと考えられるのです。大伴氏は臣(オミ)として歴史に現れますが、物部氏はカバネがムラジ(連)であり、群れの集団の主(ウシ)としての尊称が与えられたのではないでしょうか。

Photo_3 物(モノ)とは神に捧げるケモノである鹿や猪の肉(シシ)のことだと筆者は推測しています。物という漢字は、古代の中国における神への犠牲である牛の類が起源と考えられるからです。特に鹿や猪は大型動物であり霊異を宿すと考えられるため、神の化身や使徒として広く認知されており、神への供御物としては最良位の物と考えられていたに違いありません。(右の写真は諏訪大社における贄物)

古今東西、神への捧げものとしては、祈る者が最も大切としている物を奉げるのが本来の信仰であったはずです。それゆえに古くは世界の至るところで人牲が行われた証拠が残っており、日本の戦国時代には大名たちが誇りにしていた刀剣や武具を奉納したのです。

モノイミ(物忌)という言葉も、元は生贄を供えて斎(イ)むことだったと考えられます。それが下級の神職の呼び名になり、最後は神事の前に身を清める行為へと意味が変化していったのでしょう。霊異を宿す贄物は、鬼やモノノケという意味にもなり、物部氏が使うため特別な威力があると考えられた弓矢の武器を指す言葉ともなったのです。
 
Photo_2 左の写真のように、長野の諏訪大社上社の御頭祭では今でも剥製の鹿を供える神事が行われており、江戸時代までは数十頭の鹿を贄(ニヘ)として奉っていたのですが、明治政府に禁止されたため現在の形になったそうです。諏訪大社は中世以来武士階級の信仰が厚く、それゆえ狩猟肉食を禁忌することなく古くからの神事が守られてきたという事実があるのでしょうか。

つまり物部と呼ばれる氏族は、弓矢の使い方がうまくて狩猟を得意とする集団であり、それぞれ大王家やその他の中央豪族の祭祀にために、最高の贄としてケモノである鹿や猪を奉納する役目を負っていたと思われます。狩猟に長けていることは当然ながら戦闘にも長けているため、ヤマト政権の尖兵としての役目を負わせて各地に常駐させたか、あるいは現地の似たような一族を物部配下に組み入れたのでしょう。

大夫(マスラヲ)の 鞆(トモ)の音すなり 物部(モノノフ)の 大臣(オオマエツキミ)盾立つらしも (巻1-76)

なお、天武天皇の時代に日本で最初の殺生肉食の禁止令が発せられ、4月から9月まで梁(ヤナ)で捕った魚、および牛、馬、犬、猿、鶏の肉は食べてはいけないと訓示されました。けれども鹿と猪が含まれていないのは、神への捧げ物として普段の習慣があって、神事の後の直会(ナオライ)の席で食されていたからなのでしょうか。
 

2018年1月14日 (日)

第50番目 物部神社

物部(モノノベ)神社は、延喜式の小社ですが、石見(イワミ)国の一の宮として尊敬されています。現在の祭神は、物部氏の祖と伝わる宇摩志麻遅(ウマシマジ)命です。物部氏は古代の大豪族であり、元は大王の直属の被支配者であるトモが部という字をあてられて、5世紀以後に軍事や司法を司ったと考えられています。

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後にモノノフ(武士)やツワモノ(兵)という呼びならわしたのは、霊的な力を信奉して戦さに怖じなかったためと考えられます。物部氏は、単に軍事的に優れていたのではなく、魂フリなどの神事を行う巫祝集団でもあり、戦いの優劣は、宗教的な威力の優劣でもあったといわれています。587年に宗家の物部守屋が蘇我馬子に河内の八尾で滅ぼされたさい、木の上で指揮していたところを矢で射抜かれたと伝えられていますが、実際には戦いの最中に斎木(イツキ)の上から敵に呪詛していたのかも知れないのです。

Photo 最も古くは河内の河上の哮峯(イカルガノミネ)に降臨した饒速日(ニギハヤヒ)命を祖神とした一族が中心だったと思われますが、以後、ウマシマジ命、フツヌシ命、イカガシコオ命などを奉る氏族が加わって5世紀中から6世紀初めのころに勢力が最大となり、ヤマト政権の先兵として北九州、瀬戸内沿岸、アズマなどの軍事的に重要な場所に配属されて、各地に物部神社が建立されたと考えられます。(左の写真はニギハヤヒが天の磐船に乗って降り立ったといわれる河内交野郡の磐船神社)

大夫(マスラヲ)の 鞆(トモ)の音すなり 物部(モノノフ)の 大臣(オオマエツキミ)盾立つらしも (巻1-76)

ウマシマジとは、美しい嶋(シマ)の叔父(ヲヂ)という意味で、そう呼ばれていた巫覡が河内の川水に囲まれた聖域で奉った神をウマシマジ命というのではないでしょうか。

当神社も、対外的に緊張が増した継体天皇のころ、半島と北九州に対向する橋頭堡として社殿が築かれたのかも知れません。神社の背後にある円墳は、最初に入植した一族の首長の墓なのでしょう。また、境界域に呪器としてのを埋めて祭祀する厳瓶(イツヘ)の神事に関わる伝承があり、有名な三瓶山(佐比売山)に三つの酒瓶が降り、そのうちのひとつが埋められたのは摂社である一瓶社と言い残されています。

物部神社  島根県大田市川合町川合

2018年1月10日 (水)

第49番目 出雲大社

出雲(イズモ)大社は、古来は杵築(キヅキ)神社と呼ばれた明神大社であり出雲国の一の宮とされています。延喜式では、出雲郡の筆頭がオオナムチ神社で、その次に杵築神社と記載されています。現在の祭神はオオナムチ命ですが、杵築大神が別に存在していたらしいことが判ります。摂社である命主(イノチヌシ)神社の神と、天前社のイノチヒメ命が、本来の産土神であったのではないでしょうか。

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Photo_18 日本書紀によると、斎明紀の659年に、出雲国造に命じて厳神(イツクシノカミ)の宮を修するとあり、雲太和ニ京三と伝承されるような16丈(48m)の高さを誇る社殿が建設されたとおもわれます。そのころ、半島では唐と新羅による百済と高句麗への圧迫が強まって争乱状態が続いており、国家の塞神(サエノカミ)として半島に面する杵築神社が再度重要視されたのでしょう。現実に、直後の663年には白村江の戦いに敗れ、北九州に山城や水城(ミズキ)が築かれて、ヤマト政権は臨戦態勢に入ったのです。

今でも、本殿は南向きですが、本殿内の神座は西を向いており(右の図)、当時は新羅の攻勢に対して守護する体勢であったのでしょう。そのため大社の西に広がる稲佐の浜(下の写真)は防禦のための神事を執り行う神聖で重要な場所であったはずです。イナサとは威の境という意味で、上古の時代の朝鮮半島に対するヤマト国の西の境であったのでしょう。同じころの東の境は三河と遠江の境のイナサの山と考えられます。

Photo_27 (引佐の浜)

近年淡路島の砂の中から発見された多数の銅鐸が評判になっていますが、たぶん異霊に対する辺境の呪鎮のために古代の浜に埋められたものでしょう。この稲佐の浜にもきっと無数の銅鐸、銅剣、銅矛などの呪器が埋められているに違いありません。

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興味深いことに、半島側の新羅でも681年に死去した文武王が龍となって倭(ヤマト)を牽制すると言い残し、東岸の海中に墓が造られました(左の写真)。八百丹(ヤオニ)よし杵築の社といいますが、たくさんの土(ニ)という意味であって、倭国鎮護のため杵築神社を創設したときに、呪詛のため各地のクニの土を持ちよって祭祀し、その結果、たくさんの別名をもつ大国主命が生まれたのかもしれません。


出雲大社  出雲市大社町杵築東

2018年1月 6日 (土)

出雲の神々

古くから出雲国は、ヤマト政権にとっては出ヅ面(イヅモ)であり斎ヅ面でもあったと考えられます。そもそも、朝鮮半島からの鉄の輸入を支配していた北九州の諸国に対抗して、畿内域の豪族が連合体を結成したことが、邪馬台国の成立のひとつの理由としてあげられます。そのころから、出雲は半島(異族)に対向する辺塞の地として認識されていたとおもわれます。出雲西部の西谷遺跡の大型の四隅突出形方形墓を築いた氏族は、弥生時代末期には出雲の覇者であったのでしょうが、古墳時代まで勢力が続いた形跡がありません。

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出雲風土記に神名火(カムナビ)山として記載の仏経山は上古から聖地であったようで、山麓にある神庭荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸(下の写真)は、邪馬台国のころに各地から集められた祭祀用銅器を(鬼道による)辺塞地の呪禁のため埋めたものとおもわれます。そして、山の北麓に出雲郷があり、イヅモという名の発祥地なのです。6世紀になって、半島では新羅が勢力を増し、その新羅の影響を受けた磐井の乱の後に、築城(キヅキ)の中心に建立された神社が杵築(出雲)大社なのでしょう。出雲最大級の大念寺古墳(全長91m)や山代二子塚古墳(全長94m)が築造されたのもそのころです。

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出雲風土記は、ほぼ完全なる形で残っている唯一の風土記で、古事記や日本書紀には記載されていない出雲地域独自のローカルな神々の名前が詳しく説明されています。特徴的なのは、戦いのための軍団や烽火(トブヒ)の位置や数が詳細に記述されていることです。この小さな地域における延喜式に記載の神社の数が、大和と近江についで187の多きを数えるのは、各地から防人として集められた集団の神々が鎮護の神として奉られたためで、防人が帰ったあとは不在神祇官社として残ったのではないでしょうか。

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    (仏教山の遠望)

本来は、オオナムチ命とスクナヒコ命は大和の神、イザナギ命とイザナミ命は淡路の神、スサノオ命とイタケル命は紀伊の神であって、辺塞地の鎮護のために各地の神が祭祀された結果、出雲を中心として神話が構成され、神在祭という神事が生まれたのでしょう。そこから、古事記や日本書紀に記載の天孫降臨の神話も、このような各地の諸豪族の氏神に関係する説話をもとにして、天皇家とそれを支える中央豪族の氏神が中心となった神話へと再構成され、ヤマト政権の正統性確立のための起源譚となったとおもわれます。

Photo_26 (平安時代の出雲大社の想像図)

2018年1月 3日 (水)

第48番目 熊野大社

熊野(クマノ)大社は、延喜式では杵築大社(出雲大社)と並んで明神大社であって、少なくとも平安時代の前期ころまでは出雲国の一の宮でした。祭神は、櫛御気野(クシミケノ)命で穀霊の神だと考えられます。古来は杵築(キヅキ)の神よりも神位が高かった記録があり、杵築のオオナムチ命が国津神であるのにたいして、クシミケノ命は天津神と記述されています。

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祭祀者である出雲臣氏は出雲国造であり、松江市大庭町にある本殿が国宝の神魂(カモス)神社付近に在居していたと思われます。当神社の鎮座地は、意宇川の上流の隅々(クマグマ)しい聖所で、紀伊の熊野川の上流に座する熊野本宮大社(祭神のケツミミコ命は穀霊)に似たところがあり、何らかの関わりがあるのかも知れません。

Photo_7 川沿いの奥の人が立ち入らないような場所はクマ(隅、阿)と呼ばれて神が棲む聖所といわれ、神へのささげものもクマシネ(奠)といいます。石見には神稲(クマシロ)という郷の地名が和名抄に載っています。出雲風土記には「くまくましき谷」という表現があり、古事記の大国主命の国譲りの項にも「八十坰手(ヤソクマデ)に隠れて」と記載されています。(右の写真は熊野大社付近の意宇川)


また半島の百済が全盛期だったころの首都であった熊津(クマナリ)という地名や、北方系の朝鮮の檀君神話では祖神が熊であったと語られ、北海道のアイヌが熊をカムイと呼んで崇拝していた事実を考慮すれば、クマというのは大陸の北方系民族においては神を指す言葉かも知れません。朝鮮語で熊はコムといい、檀君は神人(クォム)であると伝えています。

Photo_8 (奈良時代の出雲国府付近)

出雲臣氏の祖は天穂日(アメノホヒ)命といわれていますが、この名前は出雲風土記には出てこないため、出雲臣氏が出雲国造として盤居する以前から同系統なのか、別の場所から移動してきた氏族が意宇(オウ)郡の支配権を確立したのかは判りません。出雲臣氏が奏上した出雲風土記には、出雲の4大神として、熊野、杵築とともに記紀にはない野城(ノギ、能義)と佐太(サタ)の大神の名前が挙げられており、それぞれ地域の豪族が祭祀していたと考えられます。特に、野城大神を祭祀する安来の豪族が、4~5世紀ころには最も力があったとおもわれます。そして、ヤマト政権の影響が強くなった6世紀に入り、出雲臣氏に繋がる意宇川流域の豪族が東出雲の覇権をにぎるようになったのでしょう。その奥津城が、松江市の南の山代・大庭古墳群です。

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出雲の地が朝鮮半島に対面する境の国であったため、律令時代に入るとヤマト政権の豪族が出雲国司として出向するようになり、出雲臣氏は本願地である意宇郡を離れますが、祭祀者としての権威が残されて、「出雲国造神賀詞(出雲イズモノクニノミヤツコノカンヨゴト)」を上奏するようになります。そして、西の杵築大社の祭祀権を与えられることになり、祭神をスサノオ命と改めたこともあったようです。スサノオ命も、本来は紀伊の須佐神社(有田市)の祭神であった可能性が高く、紀伊半島の航海技術に優れていた海民の一部が中央政府の意図により防禦、交易、漁労のため移住させられた結果、沿岸各地に熊野や須佐という地名が残っているのかも知れません。

熊野大社  島根県八束郡八雲村熊野

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