« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2017年12月

2017年12月31日 (日)

第47番目 大神山神社

大神山(オオガミヤマ)神社は、延喜式では小社ですが、地域において圧倒的な存在を誇るカムナビ山(神体山)である大山(ダイセン、1711m)に降りる神を祀った神社です。より古い時代に創建された里宮は古くからの遥拝地であり、中門院谷、日野丸山、福万原、尾高と社地を変えてきたと伝えられています。現在の祭神はオオナムチ命で、本社の里宮(尾高)と山腹の奥宮(大山寺)の両方に祀られています。もとはといえば、大山の聖岳に降りて、地域に豊穣をもたらす神を奉っていたはずです。

Photo_9

大山は、鳥取県の東側からよりも、神社のある西側からのながめがより秀麗で、出雲の神である八束水臣津野命(ヤツカミズオミズヌノミコト)が国引きをしたさいに、引綱の片方を支えたのが大神岳(大山)なのです。新羅や能登から島を引き寄せたといい、その地域からの移住者が多くいたのでしょう。

Photo_10 (神社付近より望む大山)

奈良時代の伯耆国の国府は、国名の元である波々伎(ハハキ)神社が座する倉吉市にありましたが、それより古くは西側域の大神山神社が座する会見(アフミ)郡と汗入(アセリ)郡のほうが発展していたと考えられます。波々伎神社と大神山神社の神位は記録に現れる837年には同等であり、856年の時点でも伯耆の一の宮といわれる倭文(シドリ)神社よりも高く、このことは祭祀一族が明確でない大神山神社が古くから地域住民に広く尊敬されてきた証なのでしょう。

Photo_13 また付近には高麗(孝霊、コウレイ)山、高麗村、蚊屋などの渡来人系の地名が残っており、日野川に沿っては、採鉄製鉄の神を奉る楽楽福(ササフク)神社が複数鎮座するタタラ式の鉄生産が盛んな地域でもあり、出雲や北九州とも密接な交流があったとおもわれます。

汗入郡司が創建したという淀江町の上淀廃寺の跡からは白鳳時代の彩色仏教壁画が出土し、近くの向山古墳群からは渡来文化に繋がる珍しい石馬(右の写真)が発見されており、会見町にも三崎殿山古墳群や天万古墳群などが点在し、この地域の古代文化の高さを示しています。

Photo_18 さらに、大山町の妻木晩田(ムキバンダ)遺跡では弥生時代における最大級の高地性村落が見つかっており、米子市には長く古墳時代まで続いた福市遺跡が存在しており、歴史資料に特別な記録がなくとも付近一帯には古くから地域社会が確立していた典型と考えられます。(写真は妻木晩田遺跡から見る弓ケ浜、境港)



大神山神社里宮  鳥取県米子市尾高

大神山神社奥宮  鳥取県西伯郡大山町大山

2017年12月27日 (水)

第46番目 宇部神社

宇部(ウベ)神社は、延喜式では因幡((イナバ)国と伯耆(ホウキ)国を通じて唯一の明神大社で、因幡国の一の宮とされています。祭祀氏族は、中国山地から多く産出する砂鉄を使った製鉄業を担う伊福部(イオキベ、イフクベ)氏だと伝わり、近くに因幡国府があったことも相まって、明神大社という高い神位に登ったと考えられます。現在の祭神はタケウチノスクネ命ですが、もとは伊福部氏の祖である武牟口(タケムクチ)命であったといわれています。

Photo_2

神社の裏地には4世紀末ころの縦穴石室をもつ円墳が存在しており、さらに東の美歎(ミタニ)には四隅突出型方形墓を含む古墳群fがあり、伊福部氏よりも古い時代に盤居していた氏族の奥津城と考えられます。その古い氏族とは、鵜部(ウベ)つまり鵜養(ウカイ)部の一族であった可能性があります。

Photo_7 鳥取市を抜けて日本海に注ぐ千代(センダイ)川は、古来は大きな潟を有する川であって、もとは陸地の深くまで水面が入り込んでいたらしく、古海、吉方(ヨシカタ)、数津(スヅ)などの地名が残っています。当神社の近くにも、オオクイという地名があり、すぐそばまで岸辺がせまっていたのでしょう。それゆえ、多くの鳥類が生息していたため、今の鳥取市の付近は鳥取郷と呼ばれて鳥取(トトリ)部や鳥養(トリカイ)部が住んでおり、後の鳥取藩の重臣にも鵜殿(ウドノ)という姓がみえます。千代川の上流にある売沼(メヌマ)神社は八上姫神社とも呼ばれ、祭神である八上姫は鳥越長者の娘といわれ、宇部神社の旧祭祀場であったとも伝えられています。(写真は因幡国府跡から宇部神社と背後の稲葉(イナバ)山を望む)

立ち別れ 因幡の山の 峰に生ふる 松としきかば 今かへり来む (在原行平)

Photo_8

(写真は日本海に注ぐ千代川の河口、その対岸側に鳥取砂丘が広がる)

鳥取市に西に残る潟湖である湖山(コヤマ)湖には天日名鳥命(アメノヒナドリノミコト)神社があり、やはり近くの加知弥(カチミ)神社にはウガヤフキアエズ命が奉られています、ウガヤフキアエズ神とは、海鵜を捕獲するためにコロニーに接して設けられた茅葺小屋に関係する神だとおもわれます。なお、当地域には伊福部、鳥取部、鵜養部に加えて、勝(スグリ)部、土師部などの技術集団が住んでいたといわれ、イナバの白兎の説話も、集団が供する薬草類の効能を称えた伝承に基づいているのかも知れません。

新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(シ)け吉事(ヨゴト) (巻20-4516)

上の和歌は、天平の759年に因幡国司であった大伴家持が詠った万葉集の最後の歌です。

宇部神社   鳥取市国府町宮下   

2017年12月23日 (土)

鵜養部(ウカイベ)

鵜飼というのは現在では観光行事として行われていますが、実際には鵜による漁獲は効率のいい漁法でした。明治時代の長良川での鵜飼の記録によると、1羽の鵜が1時間に取るアユの量は120から200匹というものでした。古代において鵜は海から捕獲しますが、鵜飼は河川で行われていました。それゆえ大きな川が流れる場所には多くの鵜養部(鵜甘部)がいたはずです。

Photo

鵜養部が部民として権益を与えられ政権に組み込まれていたのは、アユなどを神饌に供するためであり、河川での漁労の乱獲を抑えるためなのでしょう。日本人はむかしから山でも海でも自然の資源を保護し、乱獲や利害の衝突を避けるという観念を育ててきた民族なのです。

鵜飼の部民の奉る神で有名なのが、ウガヤフキアエズ命という神ですが、日本海沿岸にはたくさんの鵜飼に関わる神を奉る神社が点在しています。越前には鵜甘(ウカイ)神社、越中には鵜坂神社、越後には鵜川神社などが残っており、因幡の一宮である宇部(ウベ)神社も鵜養部と関係あるような気がします。下の二首はともに大伴家持が当地で詠んだ歌で、神饌のための鮎を捕る儀式のさいの賛歌(ホギウタ)だと考えられます。

婦負(メヒ)川の 速き瀬ごとに 篝(カガリ)さし 八十伴(ヤソトモ)の男は 鵜川立ちけり  (巻17-4023) 

年の端(ハ)に 鮎し走らば 辟田(サキタ)川 鵜八つ潜(カヅ)けて 川瀬尋ねむ   (巻19-4158)

Photo_4 海鵜を捕獲するための萱(カヤ)で葺いた小屋(左の写真)にて神祭りをした巫覡が奉る神がウガヤフキアエズ命なのでしょう。海人は小屋の中に隠れて、近づいてくる鵜を萱のスキマから道具を出して鵜の足を引っ掛けて捕獲するのが常でした。



Photo_5 山口県の海のそばの土井ケ浜遺跡からは鵜を抱いた弥生時代の女性の骨が発掘されています(右の写真)。彼女は鵜を使って神奉りをする巫女だったのでしょうか。また民間の信仰では女性の出産時に産小屋を造ることが多くあり、そこに鵜の羽毛を敷くと安産になるというものでした。その習俗は鵜飼の民から伝えられてきたものに違いありません。

なお、美濃の方県郡には鵜養郷があり、長良川で漁師をしていた集団が居住していたと思われます。この付近には揖斐川、木曽川などの大きな川が集まっており鵜飼による漁法が太古より盛んだったに違いありません。古事記に載る下記の伊那佐の山の戦闘歌は、はるかむかしの卑弥呼の時代の3世紀のころ、ヤマトの軍勢が現在の愛知県と静岡県の境の山(引佐峠)で、浜名湖より東を支配する宿敵である狗奴(クヌ)の国の軍勢と戦った時に長良川の鵜飼人の支援を待ち望んだオデッセイではないでしょうか。

盾並(ナ)めて 伊那佐の山の 木の間(マ)ゆも い行き目守(マモ)らひ 戦へば 我はや飢む 嶋つ鳥 鵜飼が伴(トモ) 今助けに来ね

2017年12月20日 (水)

第45番目 出石神社

出石(イズシ)神社は、延喜式では但馬国出石郡の筆頭で伊豆志坐神社八座と記載され、八座ともに明神大社になっており、但馬国の一の宮とされています。祭神の八座については異説があってよく判らないのですが、新羅の皇子のアメノヒボコが持ってきたという玉、ひれ(領巾)、鏡、刀、鉾などの八種の神宝(ヤクサノカムダカラ)に宿るカミであると伝えられており、現在の祭神は、出石八前大神と天日槍(アメノヒボコ)命となっています。

Photo

Photo_3 つまり、玉造、織物、鏡作、鍛冶などの技術集団が半島から渡来し、鉾(ホコ)を神のヨリシロに使って神奉りをするアメノヒボコと呼ばれた巫覡を長(オサ)に立てて出石に入植したのではないでしょうか。アメノヒボコ伝説は、但馬以外に播磨などにもあり集団が散在していたと考えられます。京都の祇園祭の行列の先頭をゆく長刀鉾の山車は、鉾の先に神を呼び降ろして奉りをした古代の形態を残すものといわれています。自然の巨石や大木を依代(ヨリシロ)として使う以外にも、木製の柱、杭、鉾などを聖地に立てて神を呼び降ろして奉るという行事(オコナヒ)は古代には一般的な神事でした。(右の写真は現在でも祭りで使われている鉾)

Photo_5 当神社は、円山川に沿って日本海から奥に入った豊岡盆地の南東側に位置します。古くは出石川流域は湿地帯であり、アメノヒボコが付近の山から採取した鉄製の農具を使って開拓したとの伝承がみられます。出石町にはアラキ(新羅)、ヤスラ(安羅)などの半島に関係するような地名が残っており、豊岡市内もかって加陽(カヤ)郷がありました。また、奈良時代の但馬国府は豊岡市日高町にあったとおもわれ、国分寺跡もその付近に残っています。(左はアメノヒボコが指導する治水工事の図)

当神社の祭祀氏族は出石君(イズシノキミ)氏と呼ばれ、奥津城としては、同じ出石町内の田多地古墳群や、出石町と日高町の中間に深谷古墳群が考えられますが、アメノヒボコ命を奉る氏族とは、半島の伽耶(カヤ)諸国が滅亡する6世紀中までに渡来した中核となる有力な氏族が存在しない技術別の集団であったのかもしれません。この後の半島の同じ地域からの渡来人らは、中央の秦氏の傘下に置かれるようになったとおもわれます。「イズモ」が斉(イ)つ面(オモ)であるならば、「イズシ」とは斉(イ)つシロ(代)あるいは斉つシマ(嶋)が変化したものかも知れません。

出石神社  豊岡市出石町宮内

2017年12月16日 (土)

第44番目 籠神社

籠(コノ)神社は、延喜式では与謝郡筆頭の名神大社で丹後国一の宮とされています。コノという名前は、コノ←コモ←カモというふうに、元はカミという意味であったと考えられます。そして、籠(コモ)るという言葉も、同源なのでしょう。古代の豪族の海部(アマベ)氏が祭祀する神社であり、神社に伝わる海部氏系図は国宝となっています。系図は彦火明(ヒコホアカリ)命から始まっており、現在の祭神として奉られています。ヒコホアカリとは火を焚いて神祀りをする男性の巫覡だったのではないでしょうか。

Photo_2

当神社から、天の橋立を渡ると宮津であり、古来から周辺は神の聖域であったのでしょう。アマノハシダテは神が天から降るためのハシゴであり、漢字のコザト偏「阝」はそのハシゴの形であり、阪(坂)は境の聖地、聖地を守るのが防という字になるそうです。ただし海人の奉る神は、海(アマ)のはるか向こうからやってくるというのが一般的です。ともかく古代人にとって「アマ」というのは神が棲む場所だったのでしょう。

Photo_3 雪舟の天橋立図

橋立の 倉梯山(クラハシヤマ)に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲  (巻7-1282)

海部氏は中央政府に伴造(トモノツクリ)として組み込まれた海人であって、紀伊、隠岐、豊後、尾張に海部郡(アマベノコオリ)が点在しています。つまり互いに交流がある擬似的な海人の氏族であったと考えられます。それゆえ、カミ奉りの信仰にも似た部分が多く、海の向こう側にもいる海人特有の神祀りの影響も強いと考えられます。さらに浦島伝説や羽衣伝説が共通しており、クマノ、スサ、ヨサ、ユラなど海人に関係する地名も残っています。

Photo_5 また、当神社の摂社に真名井(マナイ)神社があり、丹波国比治の真奈井坐ミケツ神が伊勢神宮の外宮へトヨウケ大神として遷宮されたと伝わっています。というのも、当神社の近くには丹後国府跡があり、古くはタニワの中心であった丹後郷の大宮売(オオミヤメ)神社のある大宮町、日本海側最大の前方後円墳である網野銚子山古墳(全長200m)(右の写真)がある網野町、開化天皇の妃となった竹野姫のふるさとである丹後町など、古来より栄えた地域で、中央政権と強い関わりがあったからなのでしょう。なお大宮売(オオミヤメ)の神はいまも御巫(ミカンナギ)の祭神八座のひとつとして皇居内で奉られています。

籠神社  京都府宮津市大垣

2017年12月 9日 (土)

出雲の阿国

古代における歌舞というのは、神を降ろして饗応し、その霊力を呼び起こすことを期待するための行為であったと考えられます。遊部(アソビベ)、笛吹部(フエフキベ)、語部(カタリベ)などは、王権の祭祀に奉仕する専門職の集団でした。天武朝には「くにうちの百姓(オオミタカラ)のよく歌う男女、およびヒキヒト、ワザヒトを選びてたてまつれ」と命じており、政治(マツリゴト)には欠かせない芸能であったのです。

Photo_8 平安時代になってからは有力な神社には座が設けられて、豊穣祈願のための神楽(カグラ)として盛んになったと思われます。出雲の阿国(イヅモノオクニ)(左の立絵)は、そのような歌舞をして加茂川の川原で雨乞いをする巫女集団の出身ではないでしょうか。ヤヤコ(少女)踊りといわれていますが、若い巫女が当時すでに人気のカブキ者のあでやかな装束で踊り、神事としての遊びを伝える遊女(アソビメ)風の俳優(オギワザ)をしたから流行したのでしょう。けれども、評判になったとたんに本物のカブキ者たちにオカブを奪われて消えてしまいます。

古代における加茂御祖(下鴨)神社の西の加茂川両岸は出雲郷(イズモノサト)と呼ばれており、出雲井於神社(今は加茂御祖神社の摂社)や出雲高野神社(不明)が存在したことが延喜式には記録されています。イヅモとは斎つ面の意味であり、多くの巫祝者たちが川原や橋の付近で神事を執り行っていたのでしょう。

Photo_6また社家の中には芸能を能くする秦(ハタ)の一族がおり、奈良時代以降には田楽や猿楽を通じて民間にさまざまな神事としての芸能を広めていったと思われます。田楽は田遊(タアソビ)と呼ばれた農耕にまつわる神事から発展したもので、今でも多くの神社の御田植祭などの形で残っています。猿楽は、もとは伊勢の猿女君(サルメノキミ)氏が伝えたという戯(サ)る所作で行う神楽から始まり、奈良時代には中国から宮廷に採りいれられた散楽の要素が加わったといいます。

なお京都から西へ丹波国に入った亀岡という地に出雲大神宮(本項の第43番目)という、丹後国一ノ宮として地域だけでなく洛中でも尊敬されてきた神社があります。毎年4月に行われる鎮花祭(ハナシズメノマツリ)は、一時中断していたのが復活されたものですが、風流花踊りという神事が盛大に行われています。当時は遠い島根の出雲大社よりもこちらの出雲神社のほうが、洛中では一般に知られていたはずです。

2017年12月 6日 (水)

第43番目 出雲大神宮

Photo_2 出雲大神宮(イヅモオオカミノミヤ)は、延喜式の明神大社で丹波国の一の宮とされています。現在の祭神は、オオクニヌシ命とミホツヒメ命で、出雲の杵築神社より勧請したと伝えられていますが、本来は、神社の背後にひかえる千歳の御影山(ミカゲヤマ)がカムナビ山である古い形態の神社であったと考えられます。神社に伝わる13世紀ころの絵図(右の写真)には、御影山の麓に1つの鳥居が描かれており、奈良の三輪山と同じような信仰がうかがえます。神の名前が不明なのは、もとより神は祭祀のときだけ遠くから御影山に降臨するため、名前は必要ないというカミ奉りの原形が残っているのかも知れません。イヅモとは斎(イ)つ面(オモ)という意味で、全国のあちこちにみられる一般的な地名であったとおもわれます。

Photo_3

日本書紀によると、継体天皇が皇位につく前、大伴金村が丹波国の当神社のある桑田郡にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)を担ごうとしたのですが、王は迎えの兵に驚いて逃げてしまったと記述されています。たぶん、当神社の付近には、丹波国造に繋がるヤマト政権寄りの豪族が盤居していたに違いないのです。神社の西には、そのころ5世紀末の千歳車塚古墳という前方後円墳(全長80m)があります。また、神社の前には旧山陰道がとおり、奈良時代には近くに丹波の国府や国分寺があったといわれています。

Photo

丹波国は、古くはタニハと呼ばれた今の兵庫県の一部を含む広い区域で、もとは日本海側の丹波郷(京丹後市の峰山町、大宮町)あたりが中心だったとおもわれ、当神社は日本海とヤマト政権を結ぶタニハノミチの重要な場所に鎮座しています。丹後は、タニハノミチノシリと呼ばれ、丹波より分かれたのは713年です。タニハとは、古地名のタラ(太良)やタカ(多賀)と同じ意味のタフトイ(貴い、尊い)庭であったと考えられ、タマ(魂、玉)、タ(田)、タカラ(宝)のタも同源であったかも知れません。

出雲大神宮: 京都府亀岡市千歳町出雲

2017年12月 3日 (日)

第42番目 若狭彦神社、若狭姫神社

Photo_4 若狭彦(ワカサヒコ)神社と若狭姫(ワカサヒメ)神社は、延喜式では共に遠敷(オニフ)郡の明神大社で若狭国の一の宮です。現在の祭神はそれぞれヒコホホデミ命とトヨタマヒメ命ですが、ワカサヒコとワカサヒメがヒコ神とヒメ神の対になったおり、夫婦神とされています。神社に伝わる鎌倉時代に作成された重文の若狭国鎮守神人絵系図(右図)には、鵜が神とともに描かれており、海民の奉る神であったことがわかります。神の姿は白馬に乗った唐人として描かれており、白雲に包まれて海の向こうからきた遠来神であり、系図の主である笠氏は神の末裔ではなく、神の祭祀者として記録されているのです。

Photo_10






              若狭彦神社


Photo_6 古代に当神社を祭祀していたと考えられる若狭国造氏は、膳臣(カシワデノオミ)氏の支族といわれており、北川上流域に点在する5、6世紀の脇袋古墳群や天徳寺古墳群が奥津城にあたるのでしょう。日本海沿岸の地域の豪族の特徴として、ヤマト政権と関わると同時に、独自に半島や九州の氏族とも交流していた様子がうかがわれます。古墳からの出土品には、広幅式冠帽や角杯形土器(左の写真)という異例な品物がみれら、その日本海沿岸ルートによる交流の事実を証明しています。


古代の尊称であるワケ(別、分)は、主に対する従、あるいは、支としてのワキ(脇)やワカ(若)と同源だとおもわれますが、ワカサ(若狭)国のワカも同じかも知れません。ワカメは、メ(芽)が海草であって、その新生のものにワカを付けてワカメとなり、最初は一般名であったと考えられます。若の場合、若子(ワクゴ)となって新しい、若いという意味になります。それゆえ、若狭では長寿の伝承が残っており、数百年生きたという八百比丘尼(ヤオビクニ)の説話ともあいまって、今でも、長生きできるという若水(オチミズ)の閼伽井伝説が、奈良の東大寺の二月堂お水取り行事に関わっています。若狭と奈良とのつながりは、東大寺の荘園が若狭にあったからでしょう。

Photo_9 若狭姫神社

越(コシ)の海の 手結(タユヒ)が浦を 旅にして 見ればともしみ 大和偲(シノ)ひつ  (万葉集 巻3-367) 

 
若狭彦神社:  福井県小浜市竜前字彦野
若狭姫神社:  福井県小浜市遠敷字宮の越

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »