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2017年11月

2017年11月30日 (木)

継体天皇

継体天皇は、乎富等(ヲホド)王と呼ばれ、507年に大阪枚方の樟葉(クズハ)宮で即位したと伝えられています。父が滋賀県高島の彦主人(ヒコウシ)王で、母が福井県三国のフル姫といいます。そして、手白髪(タシラカ)皇女を娶って欽明天皇が生まれ、敏達天皇、舒明天皇、天武天皇と続きます。ヲホド王は、応神天皇の5世の孫というのですが、これははなはだ疑問です。

Photo_8 というのも、天皇の血筋がとやかく言われるようになったのは7世紀以後のことで、6世紀初頭ころには血統ではなく、大王(オオキミ)として重要なのは巫覡のカリスマ性であり、霊(チ)の力を有することであったと考えられるからです。3世紀の邪馬台国ではヒメ(卑弥呼)からヒコ(男弟)であった縦関係が、5世紀には、少なくともヤマト政権内ではヒコが上に立つ関係へと逆転したのであって、アマテラス神が大和から伊勢へと遷座されたのもそのころだったのでしょう。5世紀の倭の五王の時代の歴代の大王は、霊の力が強いとみなされたゆえに奉戴され、そのカリスマ性により、九州から東北南部まで、ゆるやかな連合体としての統一王権が完成したのだとおもわれます。そして、地域の豪族らは国造(クニノミヤツコ)としてヤマト政権と関わるようになり、象徴的に規格化された古墳が造られるようになったのです。

Photo その後、大和国内の葛城氏や巨勢氏などの旧豪族が大王により衰退させられて、大和周辺の豪族連合体の力が劣化した間隙をついて、日本海の越前から、琵琶湖、淀川へと続く交通要路沿いに盤居した新興勢力が結束を固めて連合体を構成し、ヲホド王を擁立したのだと考えられます。 越前の三国君、三尾君、近江の息長君、波多君、坂田君などが新興勢力の中心の氏族で、渡来の製鉄や海運の技術に優れていたと考えられます。彼らの勢力はかなり後まで残っていたと思われ、天智天皇が近江に都を移したのもなんらかの影響力の名残であったのでしょうか。(右の写真はヲホド王の父である彦主人王の墓と伝わる滋賀県の高島市にある鴨稲荷山古墳の石棺)

そのため、在来の大和周辺豪族の抵抗が強くて、ヲホド王は即位後も、山城の筒城宮と弟国宮を経て、大和の磐余(イワレ)宮に入るのに20年を要したといいます。なお、大阪の高槻市の今城塚古墳(下の写真)が、ヲホド王の御陵とみなされており、今や立派な資料館が完成しています。

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今城塚古代歴史館  大阪府高槻市郡家新町  072-682-0820   

2017年11月27日 (月)

第41番目 気比神宮

気比(ケヒ)神宮は、延喜式では敦賀郡の筆頭の明神大社で、近くに愛発(アラチ)の関が設けられたこともあり、古来より中央政権から特別視された越前国の一の宮神社です。現在の主祭神は、伊奢沙別(イササワケ)命ですが、イササとは磯から採れる神饌であって、イササワケ命とは、敦賀の海民が奉る御食津(ミケツ)神であるケヒ(筍飯、餉霊)の大神に奉仕する巫覡であり、角鹿(ツヌガ)国造の祖であったのかもしれません。神社の東方山麓には、4世紀から5世紀の小谷ケ洞古墳群、明神山古墳群、向出山古墳群など角鹿氏の奥津城とおもわれる数多くの古墳群が存在します。

Kehijinguu

また、日本書紀の垂仁天皇紀に、オオカラ国の皇子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が敦賀に来訪したとの記述があり、その後には、渤海使節のための迎賓館(松原客館)も設けられていた事実から、当神社は日本海に向けて開かれた敦賀(角鹿)湊の中心的存在であったと考えられ、古代には神社のそばまで海岸線がきており、そこが元のケヒの浜だったのです。

この気比の大神と名前と取り替えてホムダワケと名のったのが応神天皇であるという伝えもあり、その母親の神功皇后(息長タラシヒメ)も三韓征伐の伝説では、敦賀から九州まで逸話が残されています。ここでも、近江が本願地といわれる息長(オキナガ)氏の名が出てきており、継体天皇の説話と同じように、大和地域と対抗しうる地方勢力の台頭がうかがえます。

Photo_2 それと重なるのが、新羅の皇子である天之日矛(アメノヒボコ)が妻を追って到来したという説話で、播磨を中心にして西日本に広く残っています。つまり、一般的に知られている半島から九州、瀬戸内海、摂津、大和という西からのルートだけでなく、敦賀津を初め日本海側の湊から琵琶湖を経由して大和へという北からのルートの存在が、地域の豪族の勢力分布に大きな影響を与えていたことがわかります。大陸の最新技術を継続的に入手することが、地域豪族の浮沈に関わる必須条件であり、蘇我氏などの中央の豪族も、渡来人を利用して勢力を伸ばした事実があります。


                        唐の墓に描かれた渤海使


笥飯(ケヒ)の海の 庭よくあらし 刈薦(カリコモ)の 乱れて出づ見ゆ 海人(アマ)の釣り船 (巻3-256)

気比神宮:  福井県敦賀市曙町

 

2017年11月25日 (土)

第40番目 白山比咩神社

白山比咩(シラヤマヒメ)神社は、延喜式では加賀国42社の全部が小社であり、石川郡筆頭の小社(一座)として、本来は白山(2702m)を遠くから遥拝する社であったのでしょうが、仏教(密教)の導入とともに道教や神教を加味した山岳修験道の発達につれて広く知られる神社になったと考えられます。もとの鎮座場所は手取川の右岸のアクドケ淵(古宮跡)でしたが、1480年に今の場所へ遷座したと伝えられています。平安時代には加賀、越前、美濃の3ケ所に白山の馬場(バンバ、里宮、遥拝所)が設けられて、最終的に加賀の当神社が一の宮として国の加護を受けるようになります。現在の祭神は、イザナミ命、イザナギ命、ククリヒメ命です。

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古来より、秀麗な山は神の降る聖地であり、畏怖すべき禁足地でありました。しかし、農耕が進むにつれて山の神は水源の神となり、仏教の伝来とともに始まった修験道の興隆によって修行の場所とされ、道教では不老長寿の神仙山とみなされ、神教では神の依りつく磐座(イワクラ)のある場所とされて、山頂に奥の宮が設けられるようになります。白山も本来は火山であって、16世紀まで複数の噴火の記録が残っており、古くは地域一帯の住民から畏怖され遥拝されており、祭祀を主導していた女性の巫祝をシラヤマヒメといいならわしてきたのでしょう。

Photo_2 白山(シラヤマ)と呼ばれたのは、海の向こうの半島から渡来した人々の影響があって、外地の建国神話にみられるクシフル峯を崇拝する伝承に基づくのかもしれません。日本海は大陸に面する表側であって、我々が知っている以上に多くの人々が太古より海を越えて渡来したと考えられます。例えば、越前の湊に着いた高句麗使に対して、加賀郡に盤居した道君(ミチノキミ)氏は、自分が天皇だと偽って接待したと、となりの江沼郡の江沼臣(エヌマノオミ)氏にチクられたとの記録があります。

つまり、記録以外でも、同様のことがあったとおもわれ、日本海沿岸には多くの潟湖があり、そこを利用した津(港)を基盤とする中小の豪族たちが古くから盤居していました。彼らは互いに協力したり反発したりしながらも、異国の文化の摂取に熱心であったため、小勢力ながらもヤマト政権から国造(クニノミヤツコ)として認知されて繁栄をし、特に、越前の九頭竜川域の豪族は天皇(継体)を擁立する力をもっていたのです。とうぜんながら、シラヤマ神はそれら豪族にも崇拝され、白山は日本海からもみえる航海上や漁労上のアテ山となり、海民にも尊敬されてきたのでしょう。

たくぶすま 白山風の 寝なへども 子らがおそきの あろこそえしも  (万葉集 巻14-3509)

白山比咩神社  石川県白山市三宮町

2017年11月22日 (水)

遊部(アソビベ)

飛鳥時代には神事の一部を司る遊部(アソビベ)という役職があり、その長であった柿本人麻呂の詠んだ寿歌、挽歌、鎮魂歌の多くが神や霊を表敬し慰撫するものと考えられています。現在の奈良の天理市の柿本に盤居した豪族の和珥(ワニ)氏の後裔である柿本(カキノモト)氏は、言葉(コトノハ)で神事や儀礼を司る下級の一族であったらしく、詳細な記録は残っていません。人麻呂とは柿本の一族の代々の長の名前だったと考えられ、たぶん彼の和歌はその一族集団の創作なのではないでしょうか。

柿本氏の遊部として最大の儀式が安騎野(アキノ)の冬猟であったと思われます。これはウケヒ狩であって持統天皇の孫であった11歳の軽皇子(カルノミコ)を、その父であり若くして夭逝した草壁皇子を鎮魂すると同時に、天皇霊を継体させるという招魂の儀礼でした。それゆえ冬至と思われる厳しい季節を選んで神の加護を願ったのでしょう。そこには持統天皇の強い思いが込められていたに違いありません。なお、古くは「アキ」には明くとか少年という意味がありました。

日並皇子(ヒナミノミコ)の命(ミコト)の 馬並(ナ)めて 御猟(ミカリ)立たしし 時は来(キ)向かふ (巻1-49)

Photo_2 安騎野に立つ柿本人麻呂

けれどもその時代には厚葬が薄葬へと変化し、古墳の造成がなくなって火葬が広がるのに伴って、皇族の葬送の儀において死者の招魂や鎮魂を詠う挽歌という区分が主流になってしまったため、歌における神への奉仕や饗応の部分が忘れられるようになったのではないでしょうか。相聞歌や叙景歌という区分が語られるのも、もとは神への寿歌や賛歌であったのが、恋愛や自然への理解に変わっていったと考えられます。

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なお、奈良の柿本のすぐ近くに稗田(ヒエダ)という地区があり、やはり神に奉仕する猿女(サルメ)の一族が伊勢から移り住んだ場所で、のちに古事記を称した稗田阿礼の出身地であり、舞と歌で神事を供奉した部分が柿本の一族の職務と重なります。阿礼という名前はミアレを想像させ、憑依した神の言葉を伝えるという役目を負っていたのでしょうか。柿本氏は遊部としての功績ゆえに後には高市郡に遊部郷(橿原市飛鳥川流域)を与えられ、葛城市新庄付近に柿本神社が残っています。


2017年11月20日 (月)

第39番目 気多大社

気多(ケタ)大社は、延喜式では能登唯一の明神大社で能登国一の宮といわれています。現在の祭神はオオナムチ命ですが、但馬、越中、越後(居多神社)などの日本海沿岸に同様の気多神社が残っており、ケタ神は海人の奉る海から来訪するカミであったと考えられます。社殿も、能登半島の付け根の水路にあたる邑知(オウチ)潟に近い丘陵上にあって、海上守護神として古来から尊敬されてきた神だったのでしょう。もう少し想像を膨らませば、潟(カタ)で神降ろしをする巫覡が祀る神がケタ神だったともいえます。神社の祭礼にも海人特有の鵜マツリ(12月16日)があります。

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当神社の周辺には、弥生時代の遺跡から、滝柴垣古墳群や柳田古墳群など5世紀から7世紀にかけての数多くの古墳が存在し、古来より海人の営みがありました。神社のある丘陵の下には、7世紀から15世紀に続く寺家遺跡があり、神戸(カンベ)の人々が住居した跡とみれらます。7世紀の高句麗の衰退とその後裔でもある渤海の建国の時期に、日本海を越えて多くの交流があり、特に渤海使の来朝に対応して神社のすぐ北の福良津を改修した後、神社が官社化されて明神大社になったとおもわれます。

00 古代の邑知潟(青色の区域)

羽咋市内にある羽咋神社が氏神である羽咋国造氏が祭祀に関与していたと考えられますが、もとは能登国府のあった七尾市付近に盤居した能登国造氏の勢力が強かったのですが、ヤマト政権の影響が強くなり、対外的な交易による利益も中央に取り込まれる結果となり、当神社が一の宮となったのでしょう。そして、日本海沿岸に沿った交易海路の発展は、江戸時代の北前船による北回り航路の繁栄まで続いたのでした。下は気多大社に参拝のときの歌です。

志雄路(シオヂ)から 直(タダ)超えくれば 羽咋(ハクヒ)の海 朝凪(ナギ)したり 舟楫(フネカジ)もがも (万葉集 巻17-4025)

気多大社  石川県羽咋市寺家町

2017年11月18日 (土)

第38番目 射水神社

射水(イミズ)神社は、伊弥頭(イミズ)国造が祭祀した神社だといわれており、延喜式では越中国射水郡(全34、大1小33)の筆頭神社です。越国は、7世紀末に越前、越中、越後に別れ、さらに、加賀、能登、出羽が設けられました。以来、越中の国の範囲が変遷したため、越中一の宮もそのつど変わったと考えられ、当神社も含めて複数の神社(気多、高瀬、雄山)が越中一の宮と称しています。祭神は二上(フタガミ)神で、元は高岡市の北端のニ上山の麓に奉られていたのが、明治8年に高岡城に移ったといわれています。元の社も越中総社射水神社(高岡市ニ上)として残っています。

 玉くしげ ニ上山に 鳴くとりの 声の恋しき 時は来(キ)にけり  (万葉集 巻17-3787)

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ニ上山の神なら、本来は2座のはずですが、延喜式では大1座とあるため、明神大社としても意見が分かれています。しかし、当地の豪族であった伊弥頭国造の氏神だったと考えられ、2柱のカミは、本体は夫婦神ではなくて、ヒコ神(主神)と奉仕するヒメ神という形態を取ることが多く、イミズ神もそのような神であったため1座とされているのでしょう。越国の5世紀ころには、若狭、角鹿、三国、江沼、加我、加宣、羽咋、能登、伊弥頭、久比岐、高志、高志深江、佐渡の13の国造が存在しており、小矢部川(射水川)河口のワタリノ津をもつ伊弥頭氏は中核的な存在であり、能登で生産された塩を東日本へ運ぶさいにも、重要な役割を果たしたに違いありません。また、となりの砺波郡に盤居した礪波(トナミ、利波)氏も同族であるといわれています。

Photo_3 二上山

日本海側では古くから潟を利用した海の交易が盛んに行われていました。冬以外は波も穏やかで海の道として発展し、糸魚川のヒスイや男性性器を模った石棒なども祭祀に使うため運ばれたのでした。早くから海を使った交流があり、富山湾に面する十二町潟(氷見潟)や放生津潟(富山港)への道しるべとして海上からも二上山を遥拝したに違いありません。

Photo_5 能登の七尾市の国分山遺跡などは高地性弥生遺跡であり、弥生末期の倭の大乱がこのあたりまで影響していたと考えられ、当神社より東方の富山市杉谷には出雲が起源の四隅突出型方形墓があり、早くから日本海沿岸沿いの交流のなかから上記の国造に繋がるクニが発展していたのでしょう。律令時代以後は、ニ上山の東山麓に越中国府が設けられて、746年に越中国守として赴任した大伴家持(右の写真)にも数多く詠われ、北陸の歴史を豊かに今に伝えています。

 朝床(アサドコ)に 聞けば遥(ハル)けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人  (巻19-4150)

射水神社        富山県高岡市古城
越中総社射水神社  富山県高岡市ニ上

2017年11月16日 (木)

第37番目 飛騨一之宮水無神社

飛騨一之宮水無(ミナシ)神社は、延喜式では大野郡の筆頭の小社で、現在の祭神は御歳(ミトシ)大神です。中部分水嶺に位置する位(クライ)山(1529m)を奥の宮またはカミナビ山とする神社で、ミナシ神は水源の神であり、水を甚(ナ)す神であったはずです。神社の前を流れる宮川は、北へと流れて、神通川となって日本海に出ます。神社の東側を流れる飛騨川は、木曽川に繋がって太平洋に出ます。つまり分水嶺に近い場所に設けられたのも、聖地として意味があることなのでしょう。

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位山にはたくさんの巨石が露出しており、神が降りるという岩座(イワクラ)として祀られていたのでしょう。古来は神はどこかはるか遠いところに棲み、呼び降ろして祭祀を行うのが一般的でした。後の世になって、神が聖地に潜むとか宿るという概念に変わって、神が隠(ナバ)る山という意味のカミナビ山と呼ばれるようになりました。神が棲む遠い聖地をアマといいならわして、天も海もアマと呼ばれるのです。その中で最も有名なのが高天原という架空の聖地なのです。

Photo_2 位山

当神社が一之宮といわれるのは、尾張連系である飛騨国造が祭祀したからではないでしょうか。749年に飛騨国造高市麻呂が国分寺への献納により外従五位下となった記録があり、社伝でも高市麻呂の上奏により一之宮となったといいます。この地域は耕作地が少ないかわり、森林資源が豊富であったため、山人(ソマビト)の活躍が後には飛騨匠(タクミ)と称され、当神社では、櫟の木から作るシャクを伊勢神宮の式年遷宮毎に奉納するそうです。律令時代には、庸と調とが免除されて、飛騨匠たちが徴収されたという記録があります。なお、飛騨は古来は比太(ヒタ)と呼んでおり、美濃の北という意味であったのでしょうか。

Photo_3          位山からみる御嶽山








飛騨一之宮水無神社   高山市宮村町石原

2017年11月13日 (月)

神と遊ぶ

遊(アソ)ぶとは、本来は足を使う、動かす、運ぶことにより神と交感する行為をいいます。山遊び、浜遊び、田遊びと呼ばれるのは、神を尋ねて饗応することであって、今でも各地に習俗行事として残っています。漢字の「遊」も、氏族の旗を立てて移動する象形です。さらに元は足を動かして神を呼び天から降ろす行為を言うのかも知れません。足利(アソカガ)、足柄(アシガラ)、足羽(アスハ)、足摺(アシズリ)などの地名が残るのも、足を動かして神を向かえる聖地だったからなのでしょうか。

かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は咲きつつ 秋は散りゆく (巻6-995)

Yu_2 神を呼び出して饗応する歌舞は、後に普通にいう遊びという形で残ったと思われます。神楽、田楽、猿楽をはじめ能、狂言、歌舞伎の所作には、そのような歌や動作が残っています。たとえば、能におけるヘンバイ(禹歩)とは摺り足の動作であり、陰陽道では癖邪のための行為でした。 禹(ウ)とは古代中国の洪水を治めた神で、その激しい偉業のため足が傷ついて摺り足で歩いたといわれています。 今でも地方によく残っている神社の祭でのカグラや舞は、音と所作で神を降ろして饗応するという古くからの伝統だと考えると、いっそう興味がわくでしょう。(右の図は治水神の禹)


いにしへの 賢(サカ)しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも (巻9-1725)

遊女というのも、古代の中国では女神のことであり、「詩経」に「漢に游女あり、求めべからず」と詠われており、游とは動いてとどまらない意味です。水や河の女神であり、おそらく漢水の女神だったのかもしれません。女神は男神のものだから求めるなといっているのかもしれませんし、あるいは威力があり災いを呼ぶから求めるなというのかもしれません。

Photo 我が国の童謡(ワザウタ)のひとつに「打橋の 集楽(ツメ)の遊びに出でませ子 玉出の家の八重子の刀自(トジ)…」というのがあり、歌垣に誘う歌だったのでしょう。当然ながらその場所は聖地であり、神の加護のもとに歌舞飲食して妻問(ツマドイ)すなわち相手を捜して行為におよぶ楽しい場所であったに違いありません。

だからこそ平安末期に編された梁塵秘抄の有名な下記の歌は、童謡をワケもわからず無邪気に歌う子供に対して、むかしの自由でおおらかな風俗を思い出して心が揺さぶられる思いを吐露したものなのでしょうか。当時のアソビメやウカレメという名称はすでに古代の神事に仕えた栄光はなく、金銭で春をひさぐ女とみなされていたのでしょう。

遊びをせむとや生まれけむ  戯(タハブ)れせむや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ動(ユル)がるれ 

タハブ(ル)という言葉は不純な行為をいいますが、元はタハルやタハクといい古事記には婚という字も充てられていますので、歌垣のさいの性的な行為がしだいに不適切な行為とみなされるようになっていったため、悪い意味に変化したのでしょう。    

2017年11月10日 (金)

第36番目 諏訪大社

諏訪(スワ)大社は、上社の本宮と前宮と、下社の春宮と秋宮との4社から成る、延喜式の明神大社で信濃国の一の宮です。上社は諏訪湖の南側にあり、祭神は建御名方富(タケミナカタトミ)命で、下社は諏訪湖の北側にあり、祭神は八坂刀売(ヤサカトメ)命といわれています。諏訪湖の周辺は、縄文時代はよい場所であったのでしょうが、古来より湿地が広がり、農地の開拓には困難をきわめたとおもわれます。しかし、東山道の要所であったため、中央から送り込まれた氏族が継続的に祭祀を重ねた結果、複雑な構成の神社になったと考えられます。

Photo                     上社本宮

タケミナカタ命は、古事記では、タケミカズチ神との力競べに負けて諏訪に逃げたと記されていますが、本来は、上社の摂社となっている先住の手長(テナガヅチ)神や足長(アシナヅチ)神を打ち負かして、諏訪に入植した氏族がミナカタ(水潟)で祀る神であったと考えられます。上社は本殿がなくて、南背側にある神体山(守屋山)を聖地とし、ミアレを行う大祝(オオホウリ)が祭祀する形態をとっています。もとは湖のほとりで神を呼ぶ巫覡をタケミナカタトミと呼びならわしていたのが、後に神のヨリシロとしての大祝が主導するように変わったのかもしれません。

Photo_5 なお、社地の西側には4世紀末といわれる地域最古のフネ古墳があり、多数の鉄剣や太刀が発掘されています。古く中部の要地を司る軍事的な氏族であり上社の祭祀を始めた一族の奥津城だったと思われます。東国の毛野へ行くための重要な道が東山道であり、美濃から神坂(御坂)峠を越えて飯田へ入り、天竜川を上って諏訪に出ます。そこから佐久へ抜けて碓氷峠を超えれば毛野への最短ルートでした。万葉集に詠われている神坂峠ではさまざまな祭祀遺物が発掘されて有名になっています。(右は上社前宮)

ちはやふる 神の御坂に 幣(ヌサ)奉り 斎(いは)ふ命は 母父(オモチチ)がため (巻20-4402)

信濃路は 今の墾(ハ)り道 刈りばねに 足踏ましむな 沓(クツ)履け我が兄(セ) (巻14-3399)

Photo_7 ヤサカトメ命は、ミナカタ神の后神とされていますが、本来は別の氏族の神であったのでしょう。つまり、下社の祭祀は金刺舎人(カナサシノトネリ)の一族が、6世紀前半に信濃国造として封地された後に始めたと考えられます。ヤサカとは、神社から続く街道の坂(峠)を意味するのではないでしょうか。ヤサカトメとは坂で神を降ろして奉仕する巫女を呼ぶ名で、その巫女が祀る神がヤサカトメ命と呼ばれるようになったと考えられます。下社のすぐ東にある青塚古墳は終末期の前方後円墳で、金刺氏の首長の墓だとおもわれます。(写真は下社秋宮)

0000005712_2 諏訪大社で有名な御柱祭は、もとは上社では守屋山麓に立てた神の依代(ヨリシロ)としての白木の柱に呼び降ろした神を祀る場所まで運んだのが原初の形態だと思います。その後、各神社の氏子が競い合って大きな木を奉納するうちに今のような祭りの形が完成したのでしょう。地域の人々の信仰の気持ちがいかに大きいかわかります。実際、信濃の中部と南部の地域では諏訪大社への信仰が圧倒しており、ほかに有力な式内社がみあたりません。

なお、上社の神宝のひとつとして宝鈴(鉄宰)が残っています。信濃の枕詞が「みすず刈る」であるように、信濃の火山性地質の関係から、湿地域に生えるアシやマコモなどの植物の根元には、水酸化鉄が団塊となった褐鉄鉱が産出します。褐鉄鉱の団塊は、内部に破片が残り鈴のような音がするものもあり、一般的に鳴石、鈴石、高師小僧などと呼ばれていたそうです。

水薦(ミスズ)刈る 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト)さびて いなと言はむかも (万葉集巻2-96)

上社本宮  諏訪市中州宮山
上社前宮  茅野市宮川小屋町
下社春宮  諏訪郡下諏訪町大門
下社秋宮  諏訪郡下諏訪町武居

 

2017年11月 7日 (火)

第35番目 奴奈川神社

奴奈川(ヌナカワ)神社は、延喜式では頸城(クビキ)郡の筆頭の小社ですが、祭神の奴奈川姫命はよく知られています。古事記には、出雲の八千矛(ヤチホコ)神が妻問いをした、高志の国の賢し女(サカシメ)であり麗し女(クハシメ)であった女神と記されています。もとの社は、高志峯(黒姫山1222m)に鎮座したといわれており、各地の黒姫は呉(クレ)姫の変化らしく神衣(カムミソ)を織る織姫であることから、ヌナカワ姫とは高志峯に降りた神を奉るこの地域の巫女的首長であったのかも知れません。

Photo 天津神社拝殿

当神社は、黒姫山頂から青海川の橋立に移り、さらに山崎に移り、最後に現在の地(天津神社の境内)に至ったと記録されています。天津(アマツ)神社は、この地が伊勢神宮の神領であったときに創建されたと考えられる神社であり、その創建時にはすでに奴奈川神社が鎮座していたとおもわれます。

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                  長者ケ原遺跡

 



ヌナカワとは玉の川のことであり、今は姫川と呼ばれる川の流域はヒスイ(硬玉)の産地として有名で、すぐ近くの長者ケ原遺跡には縄文時代の玉造の跡が残っており、さらに西側の大角地(オオガクチ)遺跡では縄文時代から古墳時代まで続く玉造工房跡が発掘されています。ヒスイの玉は、出雲だけでなく日本の各地へ運ばれて珍重されたようです。後には、遠く朝鮮半島へも運ばれて、百済や新羅の王族らを飾ったのも事実です。しかし、中央集権化が進むにつれて、工房や工人たちも中央へ移されたとみられ、古墳時代以後は衰退してしまったと考えられます。

沼名河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも (万葉集13-3247)

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奴奈川神社(天津神社)  糸魚川市一之宮 

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