継体天皇
継体天皇は、乎富等(ヲホド)王と呼ばれ、507年に大阪枚方の樟葉(クズハ)宮で即位したと伝えられています。父が滋賀県高島の彦主人(ヒコウシ)王で、母が福井県三国のフル姫といいます。そして、手白髪(タシラカ)皇女を娶って欽明天皇が生まれ、敏達天皇、舒明天皇、天武天皇と続きます。ヲホド王は、応神天皇の5世の孫というのですが、これははなはだ疑問です。
というのも、天皇の血筋がとやかく言われるようになったのは7世紀以後のことで、6世紀初頭ころには血統ではなく、大王(オオキミ)として重要なのは巫覡のカリスマ性であり、霊(チ)の力を有することであったと考えられるからです。3世紀の邪馬台国ではヒメ(卑弥呼)からヒコ(男弟)であった縦関係が、5世紀には、少なくともヤマト政権内ではヒコが上に立つ関係へと逆転したのであって、アマテラス神が大和から伊勢へと遷座されたのもそのころだったのでしょう。5世紀の倭の五王の時代の歴代の大王は、霊の力が強いとみなされたゆえに奉戴され、そのカリスマ性により、九州から東北南部まで、ゆるやかな連合体としての統一王権が完成したのだとおもわれます。そして、地域の豪族らは国造(クニノミヤツコ)としてヤマト政権と関わるようになり、象徴的に規格化された古墳が造られるようになったのです。
その後、大和国内の葛城氏や巨勢氏などの旧豪族が大王により衰退させられて、大和周辺の豪族連合体の力が劣化した間隙をついて、日本海の越前から、琵琶湖、淀川へと続く交通要路沿いに盤居した新興勢力が結束を固めて連合体を構成し、ヲホド王を擁立したのだと考えられます。 越前の三国君、三尾君、近江の息長君、波多君、坂田君などが新興勢力の中心の氏族で、渡来の製鉄や海運の技術に優れていたと考えられます。彼らの勢力はかなり後まで残っていたと思われ、天智天皇が近江に都を移したのもなんらかの影響力の名残であったのでしょうか。(右の写真はヲホド王の父である彦主人王の墓と伝わる滋賀県の高島市にある鴨稲荷山古墳の石棺)
そのため、在来の大和周辺豪族の抵抗が強くて、ヲホド王は即位後も、山城の筒城宮と弟国宮を経て、大和の磐余(イワレ)宮に入るのに20年を要したといいます。なお、大阪の高槻市の今城塚古墳(下の写真)が、ヲホド王の御陵とみなされており、今や立派な資料館が完成しています。
今城塚古代歴史館 大阪府高槻市郡家新町 072-682-0820