« 第27番目 伊佐須美神社 | トップページ | 第28番目 塩竈神社 »

2016年7月 2日 (土)

エミシと呼ばれた東北の住民とは

ヤマト政権からはまつろわぬ化外の衆として敵視された蝦夷(エミシ)は、もとは毛人と書かれていたときもあり、関東以北の住民の総称であって、時代や地域によって習俗が異なるため、「識性が暴(アラ)び強(コワ)く」と一義的に認識してしまうのは間違いです。実際には早くからヤマト政権と結びついて、その勢力を背景にして敵対する別のエミシと戦った部族もいたのです。

Photo_8 たとえば、邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます。そのため、コトバも入り混じり、地名もアイヌ語に由来するとは限らず、アイヌ系の人々も倭人や大陸系の人々のコトバを採用することもあったに違いありません。また、非常に気象が厳しいために人口が増えなかったので、遺跡として残る規模の集落の数なども限られていたのでしょう。(左の写真は岩手県野田村出土の蕨手刀で、東日本特有の形状をしています。)


古墳時代にはいって5世紀以降になると、西日本が手狭になったため、意図的な移住が行われたと考えられます。少数の村落単位の住民らは、土ぐも退治の説話に残るように、抵抗するものは追い出されたのかも知れません。そして、東北では会津盆地、米沢盆地、仙台平野などに最初の古墳が作られます。それまでは存在しなかった馬もこのときに紹介されて、多くの牧が造られるようになりました。

2その後、7世紀になり開墾水利技術や稲作技術が進み、東北までも至らなくても、増えた人口を支えられる土地利用が可能となったとおもわれます。関東平野がアヅマ(東端)になり、さらに高い技術をもつ渡来人が次々と入植したため、東北地方との文化の格差が急激に進んだと考えられます。そして、半島での戦争による緊張が高まるにつれて、東北地方の人員、馬、物資などが必要となり、ヤマト政権のさらなる北への進出が始まるのです。(右は坂上田村麻呂の軍に追われる蝦夷)



ヤマト政権がエミシをツガル、山夷、田夷と分類したのもこのころです。すでに、会津盆地、仙台平野に入植していた人たちは田夷であり、熟(ニギ)エミシとなり、ヤマト政権にすぐに同化して道嶋(牡鹿郡)、遠田(遠田郡)、登米(登米郡)、安部などと呼ばれた氏族が誕生します。反抗するものはアラ蝦夷と憎まれますが、彼らの使っていた弓矢は狩猟用のもので戦闘のためではありませんでした。

陸奥の 安達太良真弓 弦(ツラ)はけて 引かばか人の 我(ワ)を言なさむ (巻7-1329)

Photo_10 安達太良山

元からある程度の組織力もあり騎馬も得意であったため、ヤマト政権に帰属したエミシは、新たに蝦夷討伐の軍に徴用されて、それ以外の蝦夷はさらに差別と迫害を受けることになります。もちろん、その過程でニギエミシがアラエミシに変化したり、アラエミシがニギエミシに帰順したりと、部族の勢力が逆転することもあったと思われます。歴史とは一方的な方向にあるのではなく、いったりきたりの変化の激しいものなのです。そして、東北の住民の抵抗は規模は違っても鎌倉時代まで続くことになるのです。

« 第27番目 伊佐須美神社 | トップページ | 第28番目 塩竈神社 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: エミシと呼ばれた東北の住民とは:

« 第27番目 伊佐須美神社 | トップページ | 第28番目 塩竈神社 »