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2016年7月

2016年7月27日 (水)

第32番目 鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌(オオモノイミ)神社は、鳥海山(2237m)の頂上に本宮がある延喜式の明神大社で出羽一の宮といわれており、現在の祭神は大物忌神です。物忌とは、神事のため潔斎して忌み籠ることであり、神に奉仕する若い男女の巫者(斎宮、斎王)をいいます。けれども、本来のモノイミとは「モノ」を奉納して斎(イ)つく神事自体をいうのだと思います。「モノ」とはたぶん犠牲の動物であり、物部とは鹿や猪を狩って奉納する役目の部曲であったのでしょう。

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Photo_3大物忌神は、物忌が奉った火山の神であって、海人がアテ山(海からみた標識)として奉ずる海民の神でもあり、水源として農耕の神でもあります。鳥海山はもとはトリミ山と呼ばれ、今でも渡り鳥がよくみられる山であって、古くは霊を運ぶという鳥を見て拝奉する習俗があったのかも知れません。(右は海から見る鳥海山)

…み空ゆく 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言どひ 我がために 妹もことなく… (巻4-534)


鳥海山は秋田平野や横手盆地から秀麗な山容が仰ぎみられ、秋田富士とか出羽富士と慕われています。特に日本海からの眺めもすばらしく、かなりの沖からも遠望でき、海人にとってはまさに敬うべき神山であったのです。渤海使が最初に着いたのは出羽国とされていますが、海のかなたからこの山を目指したのかもしれません。

平安初期の839年8月、鳥海山上が10日間雨雲に包まれて雷鳴がとどろき、そのあと、浜辺で石の鏃(ヤジリ)がたくさん見つかったという変異が起こり、神の壮絶な戦いがあったとみなされて、同じころ、遣唐使の一行が海賊に襲われたが、戦って逃げ切ることができたのは、大物忌神の支援があったからだという説話が残っています。そして、その後に鳥海山の大爆発があったときには大物忌神の怒りであるとされ、秋田での蝦夷の乱が起こったときにも鎮護のため、神位がどんどん上がってゆき出羽一の宮になったといわれています。

Photo_2なお神社から南へ12kmくらいの場所に二の宮と呼ばれる城輪(キノワ)神社があり、この付近が出羽国府(城輪柵)跡(左の写真)とされています。出羽(イデハ)国が成立したのは、陸奥国から分割した置賜(オキタマ)郡と最上(モガミ)郡とを加えて、出羽郡から出羽国に昇格した713年(和銅6年)です。最初の国府は最上川より南の藤沢町付近にあったと考えられ、733年(天平5年)に国府が一度は秋田城へと移りますが、秋田蝦夷の乱による混乱のため、最終的には上記の城輪神社付近に戻ったといわれています。 


鳥海山大物忌神社  山形県飽海郡遊佐町吹浦

2016年7月24日 (日)

第31番目 古四王神社

古四王(コシオウ)神社は、斎明紀の658年に阿倍比羅夫(アベノヒラフ)が大水軍を率いて秋田の浦に着いたとき、土地の豪族である恩荷(オガ)らが帰順し、アギタの浦の神に服従を誓ったさいの建立と伝えられています。アギタの浦の神は海人の奉るカミであったとおもわれますが、現在の祭神は、大彦命とタケミタヅチ命です。コシオウとは越の奥あるいは越の男(ヲ)の意味であり、後者の場合はアギタの浦付近で地域の神祀りをする男性の巫覡だったのかも知れません。のちには神仏習合による神宮寺として併設された四天王寺の影響で、古四王と呼ばれるようになったと考えられます。

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Photo_6阿部比羅夫が大水軍を率いて秋田浦に到着した目的は、すでにニギ蝦夷であったオガらを討伐するためではなく、北方の異民族である粛慎(ミシハセ)らの南下を阻止するためであったと考えられます。その当時、高句麗が唐に攻められて衰弱し、その北側のマツカツが勢力を伸ばしており(後に震、渤海を建国)、その余波で沿海州、サハリン、北海道北部の沿岸に居たとおもわれる粛慎の移動が、蝦夷地域への侵害でもあったのでしょう。そのため神社の本殿は、秋田柵(城)と同じ丘陵の上にあって、北向きに鎮座しています。(左の写真は古代の秋田城)


Photo_7なお、渡嶋蝦夷、北海道北部の粛慎、北海道のオホーツク沿岸のツングース系住民らが、続縄文文化を引き継いだ擦文(サツモン)文化を興して、後のアイヌ民族を形成したといわれています。同様に、南九州のハヤトやクマソと呼ばれる人たちは南の諸島からやってきたとおもわれる縄文系倭人の子孫であって、アイヌとは異なる起源をもっています。日本列島は縦に長くて、四方の海からアクセスできるため、北から南まで日本人は決して均一な民族ではなかったのです。(右は船上の蝦夷)

古四王神社   秋田市寺内字小桜

2016年7月21日 (木)

エミシ(蝦夷)とミシハセ(粛慎)

古代には「短かし」の対義語に「高し」があって、身分の高低にも使われたらしく、卑にもミジカシの訓があります。もとはミシカシであって、名義抄には「賎」や「奇」の字も充てられています。つまり、エミシとは役(エ)を割り当てられた、中央政権の文化の外にいる化外民(ミシ)という意味なのではないでしょうか。

Photo_4戦いで捕虜とした俘囚に、主として宮城や要地の守護兵としての役を与えたゆえに、エミシという呼称ができたのでしょう。宮城の護衛は「衛士(エジ)」の役目でした。戦いにおける勇猛さを買われたわけで、敵を障(サヘ)ぎる佐伯部(サヘキベ)として編成されて、瀬戸内海や九州などに配置されてゆきます。また、言葉が異なるため、騒いでるようにしか聞こえないためサヘキという名がつけられたという逸話も残っています。(左の写真は宮城県の多賀城から出土の壷)



Photo_6ミシハセの「ミシ」も同じ語源だと考えられます。中国の東方の粛慎と呼ばれたツングース族の記録からミシハセの漢字が充てられていますが、わが国でいう粛慎(ミシハセ)とは蝦夷よりもさらに北にいた民族をいうのでしょう。ミシハセとは東北の蝦夷の多くが帰属した後の、7世紀以後に使われた言葉だと思われます。ただしほぼ完全に服従したのは、坂上田村麻呂の遠征後の9世紀ころだと考えられます。それでも、中央政権に対する反抗心は後まで続くことになるのも、ひとつの呼び方で表せない多様性をもつ集団であったからなのでしょう。(右は再現された岩手県の志波城柵

エミシは、差別されるだけでなく、勇猛果敢な集団として敬意をもたれていたと思われ、蘇我の蝦夷などのように中央豪族の子息の名前に採用されるくらいです。塞えぎるという字も使われますが、元は障へぎるなので彼らのもつ呪術的な能力が畏怖の対象であり、重視されたのかも知れません。それゆえ九州の隼人と同じように、佐伯部として宮城の護衛も担当することとなり、前者は吠声(犬の鳴きまね)後者は奇妙な大声で邪霊を威嚇すると考えられていたそうです。


Photo_2 ちなみに、古代の中国からみれば東西南北の四方向はすべて未開人の住む化外の地であって、それぞれ東夷、北狄、西戎、南蛮と呼ばれており、日本列島も東夷の一部でした。倭国も東夷であって、魏志倭人伝も正確にいえば魏志東夷伝中の倭人の項に記載されていることをいいます。(左の写真は古代中国から見た倭国の使者像)

2016年7月16日 (土)

第30番目 岩木山神社

岩木山(イワキサン)神社は、津軽平野の秀嶺である岩木山(1625m)を遥拝する社であり、式内社でなくとも津軽一の宮として代々地域の人々の尊敬を受けている神社です。現在の祭神は、顕国玉(ウツシクニタマ)命、多津比姫(タツビヒメ)命、坂上刈田麻呂命、オオヤマツミ命、ウガノメ命です。延喜式の神名帳に名を残さず、神仏習合もあいまって元の祭神を特定するのはむずかしいかぎりです。

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岩畳(イハタタミ) 畏(カシコ)き山と 知りつつも 我れは恋ふるか 並にあらなくに (巻7-1331)

Photo_3どうやらタツビ姫だけは、地元の神らしいのです。神社の言い伝えによると、むかし田光沼(西津軽郡)が光を放ち、ある童女が沼から珠をひろいオオナムチ命に献上したところ、命が喜んで珠と童女にそれぞれ国安珠と国安珠姫と命名し、妻となった国安珠姫の子が往来半日(イコハカ)命と呼ばれ国を治めたといいます。別の説では、田光(タツピ)沼の童女は岩木山の女神(竜神)となって奉られて、イワキはイユキ(斎ふ城)の略だというのです。(左の写真は十三湖から見る岩木山の遠望、田光沼の右上には縄文時代の亀ヶ岡遺跡があります。)




田光沼や竜飛岬の地名があるように、タツビ姫は、古来から津軽の海や岩木川を交通路にする海人が奉る神であって、同時に岩木山周辺の農耕に携わる水の神であったのでしょう。ただし、もとは沼岸で神を降ろして、その顕(タ)つ霊(ヒ)を祀る巫女の名称であったのかも知れません。


Photo_4田光沼は、古代にはもっと広域に拡がり、岩木川河口の十三湊(トサミナト)まで続いていたに違いありません。中世までは十三湊の繁栄があったらしく、当時は表日本であった日本海の潟湊のひとつとして栄えていました。ヤマト政権に取り込まれるまでは、渡嶋蝦夷(ワタリシマエミシ)、粛慎(ミシハセ、アシハセ)、マツカツなど北方の異民族との交易が行われて、イコハカなどの首長が盤居した地域には、一時的に独自のクニ(都加留)が存在したのかも知れません。

聖武天皇即位の4年前の720年に、十三湊の豪族らしき津軽津司の諸君(モロノキミ)鞍男らがマツカツの震国(渤海国)へ派遣されたという記録があります。その繁栄を示すように、岩木山神社の社殿はとても秀麗で、奥の日光と呼ばれるほどです。(右は岩木山と岩木山神社の鳥居)

岩木山神社  弘前市百沢字寺沢

2016年7月13日 (水)

イタコとオシラサマ

東北地方では主として祖霊のヨリシロとしての役目をもつ巫女をイタコと呼んでいますが、もとは各地の市(イチ)で祭祀する巫女(イチコ)から始まったと考えられています。民俗学では、東北のような周辺地域や島などの僻地では習俗や言葉に、中央では消滅したり変化してしまった古い文化が残っている場合が多いと云われます。

Photoもとより山野、磯浜、河原、道路、境など無所有の地は神の力が働く聖地とされ、市庭(イチバ)と呼ばれた特定の場所では、神威のもとで物の交換が行われ、歌垣も開催されていたようです。そこに集まるのは商人だけでなく宗教民や芸能民も含まれていました。

イタコは巫女としての役目とともに芸能者としての側面をも有していたらしく、祈祷や占いだけでなく寿言(ほぎごと)を奏上していたといわれています。そのため梓弓や琴などの楽器を携えていた者も多かったのです。主として芸能面で活躍していたのが瞽女(ゴゼ)でした。(左の絵は中世ころの鼓をもつ巫女)


Photo_2「おしらさま」は東北地方で広く残る民間信仰ですが、もとは養蚕に関する信仰だったとおもわれます。「シラ」は、中国から西洋へ伝わるシルクという名称とも関係あるとされており、新羅系の渡来民を管轄した秦(ハタ)氏の部曲(カキベ)達が持ち込んだ養蚕技術と共に伝来した信仰から発祥したものと伝えられています。(右は梓弓を使うイタコ)



皇極天皇時代の644年に駿河の富士川近辺で、大生部多(オオフベノオホ)という人物が蚕に似ている虫を常世神として祀る民間信仰を唱え世間を混乱させたため、京都の太秦の秦河勝(ハタノカワカツ)を派遣して収束させたと記録があります。

太秦(ウツマサ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(キタ)ますも

Photo_2養蚕とともに関東地方からさらに東北へと伝わったおしらさま信仰は、白馬に関わる「ソウゼン」信仰や農業祭祀と習合して現在の形態になったのでしょう。今に伝わる「おしらさま人形」は、ヨリシロとしての棒に白香を取り付けた御幣が変化したものかも知れません。イタコが手にもって、神がかりになる神事があるのはそのなごりでしょうか。(左の写真は宮城県に残る古い形のおしらさま)

2016年7月 9日 (土)

第29番目 駒形神社

駒形(コマガタ)神社は、延喜式では胆沢郡の駒形神として記載されており、駒ケ岳の山頂に奥宮がありますが、本来は駒ヶ岳を遥拝する社であったとおもわれます。山の神は、水源の神であり農耕の神でもあります。駒形は、春先になって山腹の残雪の様子が馬の形にみえるとき、代掻きなど農耕の行事を始めるといいます。また、陸中の一宮といわれています。

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Photo_15ここ以外でも、長野の白馬岳、木曽駒ケ岳、甲斐駒ケ岳など各地に同じような名前の山があって、特にそれら地域には牧(マキ)が設けられており、馬が神聖な動物であると伝えられてきたのでしょう。埴輪にも飾った馬があるように、古くから馬は特別の動物とみなされており、雨乞いのさいの犠牲に使われた記録もあり、神社への馬の奉納である献馬が、後には馬形、さらには絵馬へと替わります。(右の写真、駒ヶ岳の駒形は黒い部分)


くへ越しに 麦食む子馬の はつはつに 相見し子らし あやに愛(カナ)しも (巻14-3537)

Photo_2また802年には、この付近で抵抗を続けていた蝦夷の首長であるアテルイが降伏し、胆沢柵(城)が設けられますが、駒形神は地元の飼馬と農耕を営んでいた人々が奉っていたカミであったのかも知れません。アテルイは処罰されますが、地元のカミは式内社に加えられて、ヤマト政権による懐柔が行われたのでしょう。駒形神は、馬の神を奉るソウゼン(蒼前、相染、相前)信仰とも関係あるとされます。ソウゼン神は、福岡の竹原古墳の装飾壁画でみられる火を吹く馬(龍)のように、大陸から半島経由で渡ってきた騎馬文化をもつ渡来人の馬の神に由来があると考えられます。(左の写真はアテルイを彷彿させる蝦夷の悪路王の面)





Photoなお、神社の西4kmには最北端の埴輪のある前方後円墳として有名な角塚古墳(右の写真)があります。創設時期が5世紀末~6世紀初と考えられ、はるか古代より中央政権と関係する豪族が盤居したと思われます。アテルイよりも200年前には、ヤマト政権と対抗するよりも連衡する勢力がいたのでしょう。




陸奥の 真野の草原(カヤハラ) 遠けども 面影にして 見ゆといふものを (巻3-0396)

駒形神社  奥羽市水沢中上野

2016年7月 6日 (水)

第28番目 塩竈神社

塩竈(シオガマ)神社は、延喜式の神名帳には載っていませんが、単に祭神が不明だったためという説が有力で、陸奥(ムツ)の国府である多賀城の近くにある総社として尊敬を集めてきました。現在の祭神は、タケミカヅチ神、フツヌシ神、塩土老翁(シオツチノオヂ)神で、陸奥国一の宮といわれています。

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もとは、多賀城で行われる祭祀に使う塩を製造していた聖なる場所に建てられたシオカマドの社(ヤシロ)から始まったのでしょう。また火を使うカマドそのものが聖所であったらしく、奈良にはクド神が祀られている神社があります。神社の場所は、松島湾の奥にある塩釜の浦という天然の良港のそばの一森山の上にあり、港からは多くの物資が国府の多賀城へと運ばれたのでしょう。末社のひとつである鼻節神社では、「国府厨印」と刻まれた銅製印がみつかっています。

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大君(オホキミ)の 塩焼く海人(アマ)の 藤衣 なれはすれども いやめづらしも (巻12-2971) 

Photo_5なお、延喜式に宮城郡の明神大社と記載されている志波彦(シハヒコ)神社(左の写真)は、元は仙台市岩切の花立山上に鎮座したものを、今は塩竈神社の摂社として境内に安置されています。しかし、志波彦神の本来の鎮座場所はもっと北の岩手県の斯波(紫波)郡の志波柵(城)の付近だったと考えられます。志波城が水害により流されてしまったときに、志波姫神とともに国府の近くに祭祀場所を変えて奉られたのでしょう。

志波城の替わりに、813年に同じ紫波郡内に徳丹(トクタン)城が造営され、坂上田村麻呂らによる陸奥の平定がほぼ終了します。なお、徳丹城の造営と同時に建てられたとみられる志賀理和気(シガリワケ)神社が、最北端にある式内社といわれています。

天皇(スメロキ)の 御代(ミヨ)栄えむと 東(アヅマ)なる 陸奥山に 金(クガネ)花咲く (万葉集 巻18-4097)

塩竈神社  塩釜市一森山

2016年7月 2日 (土)

エミシと呼ばれた東北の住民とは

ヤマト政権からはまつろわぬ化外の衆として敵視された蝦夷(エミシ)は、もとは毛人と書かれていたときもあり、関東以北の住民の総称であって、時代や地域によって習俗が異なるため、「識性が暴(アラ)び強(コワ)く」と一義的に認識してしまうのは間違いです。実際には早くからヤマト政権と結びついて、その勢力を背景にして敵対する別のエミシと戦った部族もいたのです。

Photo_8 たとえば、邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます。そのため、コトバも入り混じり、地名もアイヌ語に由来するとは限らず、アイヌ系の人々も倭人や大陸系の人々のコトバを採用することもあったに違いありません。また、非常に気象が厳しいために人口が増えなかったので、遺跡として残る規模の集落の数なども限られていたのでしょう。(左の写真は岩手県野田村出土の蕨手刀で、東日本特有の形状をしています。)


古墳時代にはいって5世紀以降になると、西日本が手狭になったため、意図的な移住が行われたと考えられます。少数の村落単位の住民らは、土ぐも退治の説話に残るように、抵抗するものは追い出されたのかも知れません。そして、東北では会津盆地、米沢盆地、仙台平野などに最初の古墳が作られます。それまでは存在しなかった馬もこのときに紹介されて、多くの牧が造られるようになりました。

2その後、7世紀になり開墾水利技術や稲作技術が進み、東北までも至らなくても、増えた人口を支えられる土地利用が可能となったとおもわれます。関東平野がアヅマ(東端)になり、さらに高い技術をもつ渡来人が次々と入植したため、東北地方との文化の格差が急激に進んだと考えられます。そして、半島での戦争による緊張が高まるにつれて、東北地方の人員、馬、物資などが必要となり、ヤマト政権のさらなる北への進出が始まるのです。(右は坂上田村麻呂の軍に追われる蝦夷)



ヤマト政権がエミシをツガル、山夷、田夷と分類したのもこのころです。すでに、会津盆地、仙台平野に入植していた人たちは田夷であり、熟(ニギ)エミシとなり、ヤマト政権にすぐに同化して道嶋(牡鹿郡)、遠田(遠田郡)、登米(登米郡)、安部などと呼ばれた氏族が誕生します。反抗するものはアラ蝦夷と憎まれますが、彼らの使っていた弓矢は狩猟用のもので戦闘のためではありませんでした。

陸奥の 安達太良真弓 弦(ツラ)はけて 引かばか人の 我(ワ)を言なさむ (巻7-1329)

Photo_10 安達太良山

元からある程度の組織力もあり騎馬も得意であったため、ヤマト政権に帰属したエミシは、新たに蝦夷討伐の軍に徴用されて、それ以外の蝦夷はさらに差別と迫害を受けることになります。もちろん、その過程でニギエミシがアラエミシに変化したり、アラエミシがニギエミシに帰順したりと、部族の勢力が逆転することもあったと思われます。歴史とは一方的な方向にあるのではなく、いったりきたりの変化の激しいものなのです。そして、東北の住民の抵抗は規模は違っても鎌倉時代まで続くことになるのです。

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