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2016年6月

2016年6月29日 (水)

第27番目 伊佐須美神社

伊佐須美(イサスミ)神社は、延喜式においては伊佐須美神の一座ですが、現在の祭神はオオヒコ命、タケヌナカワ命、イザナギ命、イザナミ命の4神です。神社の場所が大沼郡といいますから、古来は、神社の前を流れる宮川とその東の大川(阿賀川)とのあいだには大きな沼地が広がっていたとおもわれます。今でも、近くに根岸、沖の館、瀬戸という地名が残っています。その大沼のほとりにあって人々が出逢う津(港)が会津、あるいは神に饗(アヘ)する津であって、イサスミ神とは、大沼の磯辺(石の多い聖地)で祭祀をする巫覡が降ろす霊(ミ)という意味ではないでしょうか。あるいは、隅(スミ)と同類語の隅(クマ)があり、クマとは奥まった神聖な場所という意味をもっています。それゆえ、人が立ち入ることが禁じられていた大沼の上流の秘所を、禁(イサ)む隅(スミ)と言い習わしていたのかも知れません。

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Photo_5大沼の対岸の会津若松市内の丘の上には、4世紀中ごろといわれる前方後円墳の会津大塚古墳(全長90m)があります。この地域を最初に開拓したヤマト政権に関わる人物の墓とおもわれ、もとは丈刀人であり、後に安部氏系である丈部(ハセツカベ)と呼ばれるようになった軍事伴部であった氏族の奥津城であったのかも知れません。さらに近くの会津坂下町にある全長が127mの東北第2の規模の亀ケ森古墳(右の写真)も、同じ氏族のものと考えられます。会津の場合、会津国造は記録にはありませんが、それよりも古い会津県主(アガタヌシ)がみられますので、やはり、ずいぶん前からヤマト政権との交流が盛んな地域だったのでしょう。

Photo_6伊佐須美神社の7月に行われる御田植祭は、日本三大田植祭の1つ(あとの2つは伊勢と熱田)として有名だそうで、大沼が開墾された後に盛んになった神事だと思われます。また、注目されるのは旧暦の5月に行われる砂山祭(塩土祭)の塩焼神事で、海から遠い山間盆地における塩の重要性が考えられ、かつ、離れた山人と海人の相互交流を物語るものでしょう。(右の写真は会津盆地から見る磐梯山)


会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲(シノ)びにせもと 紐(ヒモ)結ばさね  (万葉集 巻14-3426)

Photo_8右の図は、古代の会津盆地の大沼のおよその推定図です。盆地の北にある喜多方とは、大沼の北の潟(カタ)の意味でしょう。







伊佐須美神社: 大沼郡会津美里町宮林

2016年6月25日 (土)

第26番目 都都古別神社

都都古別(ツツコワケ)神社は、延喜式には白河郡七座のうちの明神大社で、都都古和気神社と記載されています。祭神はツツコワケ神と考えられ、チカツ(近津、千勝、智加津)神とも呼ばれています。棚倉(タナグラ)町の馬場と八槻の2ケ所に同じ名前の神社があり、それぞれ上の宮と中の宮といわれています。馬場の社の裏には都都古山とも呼ばれる立鉾(タテホコ)山があって、その山頂には磐座(イワクラ)として立鉾石が鎮座しており、それを祀ったとみられる5世紀ころにさかのぼる祭祀遺跡が東側山麓に残っています。八槻は久慈川のそばに鎮座します。

Photo_4馬場の社





当初、都都古別神が明神大社で陸奥(道奥)一の宮といわれていたのは、はやくからこの地域へのヤマト政権の進出が行われた結果、その立鉾が境界を示す標柱(シメハシラ)でもあると考えるなら、この場所に北の蝦夷(エミシ)に対する前線基地といわれる時期があったのかも知れません。ツツコワケ神も、軍事神である要素があって、馬場の社に残る「五人神楽」という神事では、甲冑に身を包んだ4人の王子と一人の姫が問答する様子が演じられます。棚倉の盆地は久慈川に沿った街道の途中にあり、西側(中通り)の白河関と海側(浜通り)の勿来関の中間に位置しており、中世以降には、棚倉城が築かれていました。

Photo_5                   八槻の社






ツツコワケとは「津の子」の意味であって、ワケは脇に起因する尊称で、大王の脇で働く豪族の長なのでしょう。つまり太平洋側から川を上った久慈川の近津(チカツ)で祭祀を行う男性の巫覡の呼び名であって、後に彼の呼び降ろす神の名となったのかも知れません。町名のタナグラは元はタナクラと読み、神を降ろすのに善い場所(クラ座)という意味があると思います。京都の京田辺市にも式内社の棚倉孫(タナクラヒコ)神社があって、タナクラとは磐座(イワクラ)と同じように神降ろしの聖地を呼ぶ一般名称だったのでしょう。そして棚は神棚となって、神の座る場所として神聖化されるようになります。

秋風に 川波立ちぬ しまくしは 八十(ヤソ)の舟津に み舟留めよ (巻10-2046)

Photo_7塙町の川上川(右)と久慈川(左)の合流地点から見る棚倉町方面の遠望

 




都都古別神社   福島県白川郡棚倉町

2016年6月22日 (水)

オオナムチとスクナヒコ

オオナムチ神は、大穴牟遅、大己貴、大穴持、大汝などと表記されており、一般的にはスクナヒコ神と対になっていることが多いようです。もとは奈良県吉野町にある大名持神社の祭神だと考えられ、吉野川の淵に立つ秀麗な妹山(イモヤマ)に降りる神といわれています。川の南岸には背山(セヤマ、兄山)があり、スクナヒコ神の降りる山であったのでしょう。どちらも足を踏み入れてはいけない聖地といわれています。延喜式では「大名持神社」のみが明神大社として記載されており、貞観元年(859年)には正一位に上りつめていますが、このとき大和で同じ位なのは他には藤原氏の春日大社の神だけです。 

大汝(オホナムチ) 少御神(スクナミカミ)の 作らしし 妹背(イモセ)の山を 見らくしよしも (巻7-1247)

Photo_12古来より地元付近の尊敬を集めており、奈良盆地の南部の磯城や桜井では、今でも「大汝詣で」という行事が行われており、毎年6月に社前の吉野川の潮ケ淵で禊して石を拾い帰って祭祀をするものです。吉野川を神聖視するのは古代からの風習であり、日本書紀の応神天皇や雄略天皇の項にはすでに吉野行幸の記事が現れていますが、持統天皇の時代に最高潮に達していて、なんと30数回も行幸されています。(右は奈良の大名持神社)

見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(トコナメ)の 絶ゆることなく またかへり見む (巻1-0037)

Photo_11左が妹山(260m)で右が背(兄)山(272m)、吉野川の川下側から見る。

オオナムチの最初のオオ(大)と最後のムチ(貴)は尊称であって、ナとは「姉(ネ)」あるいは「禰」のことだと考えられます。つまりは卑弥呼のような、神を呼び降ろして祭祀する女性の巫覡をいうのでしょう。巫女であるオオナムチが妹山に 降ろす神がオオナムチ命なのです。ムチという尊称は、女(メ)霊(チ)が語源なのではないでしょうか。大姉(オオネ)とは各氏族にいた女性の祭祀の長であって、後には親族を代表する巫女としてウネメとも呼ばれるようになったと思われます。

Photo_13 また卑弥呼の下でのサニワであった男弟が、後には男性の巫覡としてスクナヒコと呼ばれるようになったと考えられるでしょう。背山の「セ」とは長幼兄弟を問わず女性から親しい男性を呼ぶ言葉です。それゆえ太古より伝わるヒメヒコ制を基にした妹山のオオナムチ神と背山のスクナヒコ神は対で信仰されることになったのかも知れません。そして、ヤマト政権の地方への進出に連れて、諸豪族の氏神よりも古くから中央で尊敬され続けている2柱の神が、特に重視される地域においても祭祀されるようになったと思われます。(右の写真は吉野川の宮滝付近)

神からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内は 見れど飽かぬかも (巻6-0910)

2016年6月18日 (土)

第25番目 大洗磯前神社、酒列磯前神社

大洗磯前(オオアライイソザキ)神社は、延喜式では大洗礒前薬師菩薩神社と記載されており、同じ系列の酒列(サカツラ)磯前薬師菩薩神社(ひたちなか市磯崎町)とともに神仏習合形態をとった珍しい神社ですが、それぞれの現在の祭神はオオナムチ命とスクナヒコ命で、両神社ともに明神大社です。オオアライとは大祓(ハライ)の変化なのでしょう。サカツラとは、酒を入れた祝器を並べて祭祀したなごりでしょうか。

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               大洗磯前神社



記録によると、856年12月29日に、大洗磯前に神が降ったとし、夜に海が輝き、朝になってみると磯に2つの石が見つかり、神がひとに憑いて「我は、オオナモチスクナヒコ命なり」と言ったと伝えられています。オオナムチとスクナヒコは別の出雲系の神だといわれていますが、本来は、奈良吉野の妹山と背山の神だったと考えられます。ともかく、両神は特定の氏族に関わらない国つ神として諸国に知られた存在であったのでしょう。

Photo_4 酒列磯前神社

Photo_8オオナムチ神は島根の出雲大社にも奉られており、国策によって西の守りの要である出雲大社に対して、東の守りの要として当神社が奉られたのでしょう。その時期は6世紀の末~7世紀の初頭ではないでしょうか。出雲大社のすぐ西側には稲佐の浜があり、当神社の東側には大洗の磯(右の写真)があり、ともに境での神事が行われる神聖な場所なのです。西方の対抗勢力は海のかなたの新羅であり、東方の対抗勢力はエミシだったのでしょう。


大海の 水底響(トヨ)み 立波の 寄らむとおもへる 礒のさやけさ (巻7-1201)

Photo_9 この地は、大和を本拠とする豪族である多(オホ)氏(太、大、意富ともいう)と同族といわれる那珂(常道仲)国造が盤居した場所であり、神社から北西へ1.3kmにある5世紀に始まるといわれる磯浜古墳群がその奥津城だといわれています。多氏は神八井耳(カムヤイミミ)命の後裔とし、そのことからもたいへん古くから活躍した豪族だとおもわれます。耳という尊称は、ワケやムチよりも古くて、サニワ(神審者)として神のミコト(神託)を(耳で)聞き取る役目に由来するのでしょうか。なお、長狭国造(安房)、印波国造(下総)らも同族といわれています。多氏は九州にも進出しており、当神社より北にある石室装飾で有名な虎塚古墳は、筑後や肥前の同族との交流に由来すると考えられます。

大洗磯前神社  茨城県東茨城郡大洗町磯浜

 

2016年6月15日 (水)

ひたちの国と東西南北

太陽が昇る東は、日向(ヒム)かしがヒンガシとなまって「ヒガシ」になったと考えられています。つまり東が、四方向の基準であって、太陽が沈む西は、去(イ)ニシからの変化だといわれています。「シ」は風のことで嵐(アラシ)のように使われ、風の吹く方角をも意味します。国風(クニブリ)とか風俗とかに風が使われているのも、地域の習俗は風が伝えるといわれていたのでしょうか。

弓をひくときには左手はまっすぐに伸ばして弓をもつので、「直(ひた)」から「左」が生まれて、東に向かって左が「ヒタ」、それが変化して「北」になったという解説があります。また、右手はねらいをつけるための「目切り」からミキリとなまって「右(ミギリ)」となり、さらに変化して「ミナミ」になったとも考えられます。

Photo 常陸国の古図

常陸指し 行かむ雁もが 我が恋を 記(シル)して付けて 妹に知らせむ (巻20-4366)

Photo_2そのため常陸(ヒタチ)とは、一般的には直(ヒタ)道の意味といわれていますが、もとは北への道であったとも考えられます。また常陸風土記に載るヒタカミ(日高見)のクニもキタカミ(北上)への変化と関係があるのかも知れません。道は、古代の人にとっては霊の通う道でもあり、魂の宿るモノでもあったと考えらていたのでしょう。それゆえに放逐される夫の不運を悲嘆して、下記のような歌が生まれました。(右の写真は筑波山を遠望する霞ヶ浦)


君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天(アメ)の火もがも (巻15-3724)

「玉鉾」とは道の枕詞であって、古代の道は聖具であるホコ(秀木)を使ってお祓いをしてから足を踏み出すべき畏怖する場所であったのです。万葉集の中には、旅の途中で異郷の地霊を慰撫する和歌がたくさん詠われています。「見れど飽かぬ」という定型の表現は、地霊への言アゲや言ホギをいう賛え歌に繰り返し使われています。常陸は東海道の東の端の国であって、ヒタミチの北が、道の後(シリ)であり道の奥(ミチノク)なのです。

Photoなお、常陸風土記のなかに、油置売命(アブラオキメノミコト)という女性の首長が盤居していたと記述されています。たぶん、植物油を焚いて神を呼びおろしたり、あるいは、オキとは熾のことで、神火を絶やさずに焚いて守る巫女が、部族の長として推載されていたのでしょう。常陸の枕詞は「衣手」といいますが、「浸す」といゴロ合わせだけでなく、常陸から中央政権へ献上する布の質が良く、前記のような植物油も含め多くの産物が採れる豊かな国であったのが理由とも考えられます。「常陸風土記」に、海川山野の幸が豊かであると記載されているのも当然のことでしょう。(左は常陸で一番大きな舟塚山古墳(石岡市)、全長186mの5世紀後半の前方後円墳です。)

2016年6月12日 (日)

第24番目 鹿島神宮

鹿島神宮は、延喜式の明神大社で常陸国の一の宮で、古来は、伊勢神宮と同じく20年毎に本殿を新しくする式年造替宮が行われていました。現在の祭神は武甕槌(タケミカヅチ)命ですが、常陸国風土記では「香島の天の大神」と呼ばれ、天から鹿島に降りる神という意味です。本殿は、天智天皇時代に造営されたと伝えられており、それより以前は磐座(イワクラ)のある斎庭(イニワ)のみの原始信仰の形であったかもしれません。いまでも、本殿の裏には御神木(神代杉)や要石が祀られています。なお、印旛(印波)という地名も、古来はイニワと呼ばれていました。

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霰降り 鹿島の崎を 波高み 過ぎてや行かむ 恋しきものを (巻7-1174)

鹿島という地名は、九州の杵島(キシマ)と同じように神を奉る域(シマ)という意味で、共に枕詞が「あられふる」であることから、歌垣の場所でもあったと考えられます。実際に、明治の前までは、鹿島神宮でも踏歌(アラレバシリ)の節会(セチエ)という神事が行われていました。つまり、地域の人々が集まる神聖な場所(坂、川原、橋元、道股、渡し場、港など)のひとつであったわけです。

Photoそれが鹿島のように平坦な台地であれば、依代(ヨリシロ)としての神木(椿、橘、槻など)が植えられ、さまざまな神事が行われたのでしょう。同じ場所には、やはり地域のカミであった坂戸神や沼尾神も祀られています。ゆえに、タケミカヅチ神は、坂(境)のカミ、塞(サエ)のカミ、水のカミでもあったと思われます。旅立ちをいう「鹿島立ち」という言葉は、この境の意味から始まったのでしょう。(右の絵図の台地の左方が鹿島神宮、下方は北浦(浪逆浦))


常陸なる 浪逆(ナサカ)の海の 玉藻こそ 絶えすれ あどか絶えせむ (巻14-3397)

そのような斎庭では、酒を入れた厳瓶(イツヘ)、斎瓶(イワヒベ)、八十平瓶(ヤソノヒラサカ)などと呼ばれる容器を地面に据えて祈る神事が一般的に行われており、タケミカヅチという神も、もとはそのような甕(ミカ)に関わる名前であったともいわれています。なお、常陸風土記には、4月10日に男の女も集いて、日を積み夜を累(カサ)ねて、飲み楽しみ歌ひ舞ふというカシマブリの神事が伝えられており、今でも祭頭祭(サイトウサイ)という形で残っており、たぶんもとは歌垣(カガヒ)の神事のなごりだと思われます。

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649年に中臣部兎子(ナカトミベノウノコ)を遣わして、海上国と那珂国の一部を割いて神の郡(コオリ)を置くという記録があり、そのころの鹿島神宮の祭祀氏は多(オホ)氏系の那珂国造氏や物部系氏であったとおもわれます。それ以後、ヤマト政権の本格的な東北への進出が始まるにつれて、中臣(藤原)氏がしだいに進出して最終的には祭祀権を奪取したと考えられます。

まつろわぬ蝦夷に対抗するためか、他の神社と違って本殿は北を向いており、祭神の名前にもタケ(武、建)が加えられたのでしょう。常陸国が蝦夷討伐の出発地点と考えられたのは、その経路が主として太平洋岸沿いであったためだとおもわれます。それゆえ、沿岸に沿っていくつもの鹿島御子神が祀られているのです。(左は地震ナマズを「要石」で押さえ込む鹿島の神)

あられ降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍卒(スメラミクサ)に われは来にしを (巻20-4370)

鹿島神宮  鹿嶋市宮中

2016年6月 9日 (木)

なんじゃもんじゃ

関東地方で使われている「なんじゃもんじゃ」という言葉は、何を意味しているのでしょうか?

下記の江戸時代の船頭歌が発祥だと考えられています。

Photo_7ここは神埼(コウザキ) 森のした
楫(カジ)をよくとれ 船頭どのよ
主(ヌシ)のこころと 神埼森は
ナンジャモンジャで 気が知れぬ

右は江戸時代の神埼と利根川。霞ヶ浦を中心に広い湖水地帯は海運に利用されていました。







Photo_3 利根川からみた神崎の森


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千葉県の神崎町は利根川の沿岸部にあたる地域で、太古から変わらぬ神の森を有する神崎(コウザキ)神社が鎮座しています。神社の場所は独立した小高い台地となっており、古く香取の海が近くまで広がっていた時代には、航海の標識とするアテ山と認識されてきたに違いなく、神の鎮座する崎(ミサキ)と名づけられたのでしょう。



Photo_5神の森にある大きな楠木は樹齢が2000年ともいわれ天然記念物に指定されています(左の写真)。社が建立される前は、この銘木が神の降りる御神木であって、神社の基礎をなしたのでしょう。そこで「ナンジャモンジャの森」の木として語り継がれて、「ナンジャモンジャの気が知れぬ」が後には「ナンジャモンジャの木が知れぬ」と誤解されて、ずっと後には奇妙な木をナンジャモンジャというようになったと思われます。



ところでナンジャモンジャの意味ですが、神社の祭神はアメノトリフネ神、オオナムチ神、スクナヒコ神、別の説ではオモダル神、カシコネ神など諸説があります。江戸時代でもはっきりとした祭神が決まらず、土地の人々は様々な神名を伝えていたのでしょう。オオナムチ神はオオナンジ(大汝)神ともいい、「ナンジやオモダルや」とか云っていたのが、言葉遊びも手伝って「ナンジャモンジャ」に変わっていったのではないでしょうか。

ちなみに、近くにある香取神宮への旧参道にある菫(タダス)橋は、参拝の前に手足を清める場所で、通称は「じょんぬき」橋と呼ばれていますが、「ぞうりぬぎ」橋がなまったものです。

2016年6月 6日 (月)

第23番目 香取神宮

延喜式の式内社のうち、神宮となっているのは伊勢神宮以外は鹿島神宮と香取神宮だけです。香取(カトリ)神宮は、当然のことながら明神大社であり、下総の一の宮とされています。現在の祭神は経津主(フツヌシ)神ですが、日本書記などにはイワヒヌシと記述されています。古来、この地域は海上(ウナカミ)の国とよばれ、今の地勢とは違い鹿島台地や行方台地など複数の半島が突き出た状態で内海が広がり、犬吠崎へ延びる半島の北端に香取神宮が鎮座し、西の流海(香取海)を隔ててカシマの先に鹿島神宮がありました。

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当初は、香取神は鹿島とは関係のない海人の奉るカミだったと伝えられています。房総半島から常陸にかけて、古来より、ヤマト政権の進出にともなって、阿波や紀伊の海部が入植した形跡がみられます(安房、筑波(紀)、那珂、日高など)。香取は津であり、一説によると、海部が奉る日の神であったため、エミシに対する拠点として重要なこの地に、敏達紀に創設された日祀部(ヒマツリベ)の他田日奉部氏が海上国造として派遣され、斎主(イワヒヌシ)として祭祀を行ったというのです

大船の 香取の海に いかり下ろし いかなる人か 物思はずあらむ (巻11-2436)

Photo_2 カトリとは楫取(カジトリ)の意味だといい、日の神が乗る太陽の舟のカジトリなのでしょうか。神宮にはアサメという巫女(フジョ)がいたらしく、それが朝女ならば、「かとりまち」とは朝日を待つ神事か、または、お告げを待つ(コトマチ)神事だったかもしれません。そうだとすれば、常陸(ヒタチ)とは直道(ヒタミチ)の略といわれていますが、後に「日立」という漢字を充てるようになったのは、地元では当然のことであったのかも知れません。なお、近くにある神埼(コウザキ)神社や大戸神社の祭神に、天鳥舟(アメノトリフネ)命の名前がみられます。



その後、ヤマト政権内でのアズマにおける利権争いが活発になり、鹿島の大神を奉る斎主(イワヒヌシ)の社となって、物部系のフツヌシが祭神となり、物部氏の宗家が蘇我氏に滅ぼされて中臣(藤原)氏に祭祀権が移ったと考えられます。ちなみに、奈良にある物部氏のフツノミタマを奉る石上(イソノカミ)神社は、元は神宮でしたが延喜式では神社に変わっています。

常陸なる 浪逆(ナサカ)の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ (万葉集 巻14-3397)

香取神宮  佐原市香取  

2016年6月 2日 (木)

第22番目 玉前神社

玉前(タマサキ)神社は、延喜式では上総国の唯一の大社で、上総国の一の宮とされています。埴生(ハニウ)郡の筆頭に記載されており、古来は伊甚(イジミ)国に属していたとおもわれます。現在の祭神は、玉依比命(タマヨリヒメ)命ですが、安閑紀に伊甚国造稚子が珠の拠出の遅れを糾弾されて屯倉を献上したという逸話が残っており、元から玉に関係する神を奉っていたと考えられます。タマヨリヒメとは、神聖な玉に神を寄り付かせて奉る巫女を呼ぶ名前だったに違いありません。

荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにあれと 誰れかに告げなむ (巻2-0226)

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そのため玉は魂(タマ)にもつながる重要な聖具であって、中央では摂津の玉祖(タマノヤ)氏や地方の玉作(タマツクリ)氏が主な担当者とされ、祭祀用具を供給する忌部氏とも関係するとおもわれます。言い伝えによると、古来のご神体は玉浦(九十九里浜)に流れ着いた玉であって、コハク、メノウ、真珠などといわれています。なお、隣町にある油殿、能満寺古墳群は、一宮川流域に盤居した伊甚国造氏の奥津城なのでしょう。

Photo房総半島では、東京湾側にたくさんの式内社や古墳がありますが、小櫃川の馬来田(マグタ)国造氏、小糸川の須恵(スエ)国造氏、養老川の上海上(カミツウナカミ)国造氏などほぼ河川流域ごとに、ヤマト政権の影響下にある規模の小さな渡来系氏族が4世紀以降から段階的に入植したとおもわれます。そのせいか、さまざまな技術集団による専門化が進んだとおもわれ、特に、関東地域における機織や古墳埴輪の技術の秀逸性につながるのでしょう。

(右は九十九里浜)


夏麻引く 海上潟の 沖つ洲に 船は留めむ さ夜更(ヨフ)けにけり  (巻14-3348)

また、総(フサ)の国とは、もとは塞(フサ)であったらしく、北の蝦夷に対する塞神(サエノカミ)としての鹿島や香取に神社があるように、早くからヤマト政権の進出に伴って忌部氏らと共に海運を担当する海部(アメベ)なども入植させたと考えられます。この地域にみられる海からの寄神(ヨリガミ)信仰は、その事実と関係するのでしょうか。そして、ヤマト政権が重視する明神大社などの神社が、房総半島から常陸まで海岸沿いに配置されているのです。

玉前神社  千葉県長生郡一宮町一宮

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