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2016年5月

2016年5月30日 (月)

防人のうた

防人に 行くは誰が背(兄)と 問うひとを 見るが羨(トモ)しさ もの思ひもせず (巻20-4425)

Photo_2いつの時代も、身内の誰かを戦へ送り出すのは心が裂けるできごとだと思います。1300年前のアズマの国々からは、たくさんの若い人たちが防人(サキモリ)として、遠くは九州までも旅して歩いたのです。任期は1年から3年、旅の準備はもちろん、武器にいたるまで、本人が用意しなければなりませんでした。






芦垣の 隅処(クマト)に立ちて 吾妹子(ワギモコ)が 袖もしほほに 泣きしそ思(モ)はゆ (巻20-4357)

自分の家のことではない人は、他人の悲しみには想い至らないため、当事者はよけい切なくなるのでしょう。しかも主たる働き手である男性がいなくなって、残された家族は経済的な不便に泣いたことでしょう。そして旅立ちの当日には、さらに悲しみが増します。

韓衣(カラコロム) 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母(オモ)なしにして (巻20-4401)

残された人たちにとっても、大切な家族であり、頼りになる働き手を失う寂しさはいかなるものだったのでしょうか。下の歌の紐(ヒモ)は、霊(ヒ)の裳(モ)であって、神への祈りをこめて愛する人の安全を願う気持ちをヒモに託していたのです。それゆえ「結ぶ」とか「つなぐ」とかは神聖な行為であったようで、今でも「きずな」を大切にするのは同じ心情なのでしょう。

草枕 旅行く背(兄)なが 丸寝せば 家(イハ)なる我は 紐解かず寝む (巻20-4416)

Photo_3さらに、長く困難な旅の途中では、すでに故郷への募る思いが溢れでます。国境である峠は、むかしから旅の安全を祈る手(タ)向けの場所で、タムケがトウゲになったといわれていますが、防人たちにとっては、やはり神に加護を祈りつつも故郷に残した家族のことが気にかかります。(左の写真は足柄峠付近)




足柄の み坂に立して 袖振らば 家(イワ)なる妹は さやに見もかも (巻20-4423)

Photo望郷の思いは、距離が遠くなるにつれ、時間が経過するにつれ、ますます募るものに違いありません。残された家族にとっても、心配はつきないものだったでしょう。万葉集の20巻は防人の歌がたくさん記載されています。このような豊かな感情をこめた歌が1300年も前から残っているのに、日本人は明治以降なぜ他国との戦争に走ったのでしょうか?

(右は防人の主たる任地である筑紫の水城付近)



家にして 恋ひつつあらずは 汝(ナ)が佩(ハ)ける 太刀になりても 斎(イワ)ひてしかも (巻20-4347)

2016年5月27日 (金)

第21番目 安房神社

延喜式には安房国六座(大ニ座)とあり、安房坐(アワニイマス)神社と后神天比理刀咩(キサキカミアメノヒリノメ)神社とが明神大社です。安房(アワ)神社は、秀麗な吾谷(アズチ)山(101m)を背にした安房坐神社であって、安房の一の宮とされています。後者のアメノヒリノトメ神は別に洲神とも云われており、もとより在地の巫女が州浜において天より降ろす神と考えられ、古くより当地の海人に奉られていたのでしょう。

Photo

Photo_11現在の安房神社の祭神は天太玉命(アメノフトダマノミコト)で、奈良の忌部(斎部)氏の本願地の天太玉命神社(左の写真)からの分祀であると伝えられています。忌部氏は基本的には神事を担当する部民であり、祭祀用具を準備する業務を司ったらしく、全国各地に配置されており、天日鷲(アメノヒワシ)神を奉る阿波の忌部が、天太玉命の孫の天富(アメノトミ)命に率いられて安房へやってきて座神社を建立したと伝承されています。




しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける (巻9-1738)

Photo_14つまり、ヤマト政権が、北のまつろわぬ蝦夷(エミシ)に対する橋頭堡として、四国阿波の海民を当地に住まわせて、さらに北へ兵を進めるさいの軍船の基地する目的で、東海道の東端にあたる海上交通の要である房総半島の先に忌部の神々を奉らせたものではないでしょうか。ゆえに、朝夷(アサヒナ)郡の式内小社の莫越山(ナコシヤマ)神社の祭神は、讃岐忌部氏の奉る手置負(タオキホオイ)命と紀伊忌部氏の奉る彦狭知(ヒコサチ)命であり、同じ郡の下立松原(シモタチマツハラ)神社の祭神は阿波忌部氏の奉る天日鷲(アメノヒワシ)命です。(右の写真は洲崎神社から富士山を見る)

そのほか、筑紫と伊勢の忌部氏は天一目筒命を、出雲の忌部系の玉作氏は櫛明玉命を奉っており、やはり海民と考えられており、彼らは血縁のある同族ではなくて擬似的な氏族だとおもわれます。それら氏族をまとめて管理したのが大和の忌部氏だったのでしょう。忌部氏の一部は869年に斎部と名を改めますが、その後は、中臣氏に宮中の祭祀権を奪われて、徐々に中央での影響力がなくなったようです。

安房神社  館山市大神宮字宮ノ谷

2016年5月24日 (火)

歌垣(カガヒ)

歌垣は、もともとはカガイと呼ばれていたらしく、奈良県の天の香具山(カグヤマ)もカガイが行われた場所だと考えられています。一般的には、春秋の2回に男女が集まって歌舞飲食をして楽しんだといいますが、究極には集団による子造りの神事ということもできるでしょう。つまり神の加護のもとで婚(カグ)り合うのがカガイの意味で、言葉があまりにも露骨なので後には歌垣に変えたのでしょうか。垣もカクれるとかカコむとが語源で、同じような隠れた意味をもつ語です。誰もが知っている童謡の「カゴメカゴメ」も、カガイで歌われていたのが発祥ではないでしょうか。

いにしえの ことは知らぬを 我れ見ても 久しくなりぬ 天の香具山 (巻7-1096)

Photo_5 カガイは漢字では「嬥」を充て、嬈と同じで戯れるの意味があり俗字では嫐となり、やはり乱交をうかがわせるものとなっています。古代における閉鎖的な集落では、血縁関係が濃くなり勝ちなので、不特定の多数と交わることは、遺伝学的にも正しかったと思われます。たとえば、天皇家においては特別な霊(チ、血)を継体させるため古くは異母兄妹での婚姻も認められていたので、若くして亡くなれた皇子が多いのも近親遺伝に因るところかも知れません。(右は藤原京跡から見る天の香具山)

筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 よにもたゆらに 我が思はなくに (万葉集 巻14-3392)

日本の各地で古代に行われた歌垣は、地名からも類推できるものです。唐津のカガミ山(ヒレフリ山)や滋賀の逢坂も、神が宿る聖地であってカガイが行われた場所とおもわれます。また、神が寄るというチマタ(道股)、辻、市のあった場所でも、奈良のツバ市や大阪河内のエガ市などカガイが行われたと伝えられています。

紫の 灰さすものぞ 海石溜市(ツバイチ)の 八十(ヤソ)の街(チマタ)に 逢える児や誰 (巻12-3101)

Photo_6さらには、浜辺(ウナイの松原)や水辺にもカガイが行われたらしい場所がたくさんあります。妹や妻という言葉が含まれる枕詞に続く地名は、カガイの場所に関係するのかも知れません。カガイは、やはり中国から伝わったという踏歌(アラレハシリ)という行事にも関係しており、枕詞のアラレフルに続く九州の杵島(キシマ)や茨城県の鹿島(カシマ)もカガイが行われた場所であったのでしょう。そのほか、山遊びや野遊びというコトバも、カガイに繋がるかもしれません。(左は宮中での踏歌の図)



あられうつ 阿良礼(アラレ)松原 住吉(スミノエ)の 弟日姫(オトヒヲトメ)と 見れど飽かぬかも (巻1-65)

下野の 阿蘇(アソ)の川原よ 石踏まず 空ゆと来(キ)ぬよ 汝(な)が心告(ノ)れ (巻14-3425)

カガイでは、普通に想いを吐露して相手の気を引くだけでなく、相手を揶揄したり、さまざまな駆け引きや冗談が飛び交ったとおもわれ、しかも未婚の若い人たちだけでなく、(子供がほしい)人妻や(盛りをのがした)オトナらも参加したようすがみえます。また、国褒めの定型である「見れど飽かぬ」を「寝(ヌ)れど飽きね」と変えている歌もあり、自由奔放さがうらやましいかぎりです。

梯立(ハシダテ)の 倉椅(クラハシ)川の 石(イワ)の橋はも 壮子時(ヲザカリ)に わが渡りてし 石の橋はも (巻7-1283)

Photo_7万葉集の多くの男女関係を詠う相聞歌や東歌は、歌垣で詠い継がれてきたものや、それらを脚色したものだと考えられます。土地の名前を読み込むさいも、かならずしも土地で読まれたものではなくても、各地の神祀りや言魂としての連想から織り込んだこともあったでしょう。

しかもカガイの場所は神に選ばれた聖地であったので、どこでも神を寿(ホ)ぐ言葉がつけられており、同じような地名になってしまうのです。万葉では神に捧げるため声を出して詠うの普通であったため節がついていますから、カガイの場所でなくとも、日常の作業の場所で歌われ続けられたとおもいます(上の写真は中国山岳地帯に住む苗(ミャオ)族の現在でも行われている歌垣の行事)。

以下は類型を示す、歌垣で歌われたとおもわれる一連の歌です。巻が違うので様々な異なる場所から採用されたと考えられますが、いわゆる人気の歌は次々と歌い継がれて、編曲されたり言葉が変えられたりして広まり残っていったのでしょう。「摘む」という行為はウケヒの神事であって、一定の期日中に一定の量の菜草を摘み取ることによって、願望の成就を願ったり、占いとして神意を尋ねるものなのです。

君がため 浮沼(ウキヌ)の池の 菱(ヒシ)摘むと 我が染めし袖 濡れにけむかも (巻7-1249)

君がため 山田の沢に ゑぐ摘むと 雪消(ユキゲ)の水に 裳の袖濡れぬ     (巻10-1839)

豊国の 企救(キク)の池なる 菱の末(ウレ)を 摘むとや妹が み袖濡れけむ   (巻16-3876)

 

2016年5月20日 (金)

第20番目 筑波山神社

筑波山(ツクバサン)神社は、延喜式ではニ座となっており、一方が明神大社で他方が小社です。祭神は、坂東平野にそそり立つ2つの峰をもつ筑波山に降りる男神と女神だと考えられ、それぞれの山頂に本殿があります。

男(オ)の神に 霧立ち上り しぐれ降り 濡れ通るとも 我(ワレ)帰らめや  (巻9-1760)

Photo_4常陸風土記には、「筑波の岳は、往き集いて歌ひ舞ひ飲(サケノ)みものくらふこと、今に至るまで絶えざるなり」と記述されており、そのわけとして、むかし祖神が旅の途中に、富士山に一夜の宿を請うたが物忌みのために断られたので、祖神が怒って雪が消えず人は登らずと呪詛をかけたけれど、一方の筑波山の神は物忌みであったにも関わらず、飲食をさずけて宿を貸したため、祖神が喜んで末永く栄えるようにしたという伝説があります。

神社を祀っていたのは、地域に棲む筑波国造の一族と考えられており、成務天皇時代に阿閉色命(アベシコノミコト)を筑波国造に定めたと伝わっており、筑波山のふもとにある6世紀前半の前方後円墳の八幡塚古墳(全長90m)は筑波国造に関係するとおもわれます。筑波山は、国見の山でもありました。また、筑波山の東側の石岡には、常陸(ヒタチ)国府があったと判断されています。

Photo_7ともかく、有名なのが筑波山麓で行われたという嬥歌(カガイ)でしょう。妻ある男性や人妻さえも参加したという歌垣の場所は、神社と桜川のあいだに広がる夫女ケ原と呼ばれた場所で、古くはモハキツ(津)のそばと伝えられていました。モハキ津とは桜川にあった舟止まりで、霞ヶ浦から川を上って歌垣に参加した人たちでにぎわったことでしょう。右はモハキ津付近の桜川と筑波山と桜川の写真です。


筑波嶺の 嶺(ネ)ろに 霞居(イ) 過ぎかてに 息づく君を 率(イ)寝てやらさね (巻14-3388)

筑波山神社 つくば市筑波

2016年5月16日 (月)

古代の父と母

父(チチ)のもとは「チ」であり、おそらく先祖の霊(チ)を継ぐと考えられていた一族の長の尊称だったのでしょう。一般的な父系家族社会の流れの中にあったと考えれます。チチは後にはテテやトトに変化して、おとうさんになります。

父母が 頭(カシラ)かき撫で 幸(サ)くあれて 言ひし言葉(ケトバ)ぜ 忘れかねつる (巻20-4346)

Photo_2母(ハハ)の語源として古代に「いろは」という呼びがあり、イロセが実の兄弟をいうのと同じように実の母をいうのでしょう。古代の出産はたいへんだったらしく、乳児を残して亡くなったり、授乳ができなかったりした場合には、同じ一族の別の女性が乳を与えたと考えられ、それを乳母(チオモ)とか呼ぶようになりました。(右の写真は、栃木県真岡市の鶏塚から出土の子を負う古墳)

「オモ」は半島からの外来語といわれていますが、おそらく大陸からの渡来者集団の母系社会の伝統に基づく名称なのでしょう。そこからオモチチ(母父)という表現が生まれます。万葉集の東歌にオモの名称が多く使われているのも、関東平野に配置された渡来集団の影響ではないでしょうか。


たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路(ミチ)ゆく人を 誰と知りてか (巻12-3102)

8世紀の律令制の前までは、まだ母系社会の傾向が強く、子供の名前をつけるのも母親の役目でした。妻問いする男も母親の許可を得なければなりませんし、万葉集の若い男女の恋の歌にも母親に決定権があったことが詠われています。やはり、子供を創るという性は古代においては特に優越性を発揮し、男性より女性のほうが長生きするのも味方して、家の長(オサ)としての権威が残ってゆくのでしょう。

魂(タマ)合へば  相寝るものを 小山田の 鹿猪田(シシダ)守るごと 母し守らすも (12-3000)

Photo_3母の枕詞の「タラチネ」は、一般的には「垂ら乳ね」の意味と言われていますが、本来は「足ら霊(チ)禰(ネ)」であって、霊を呼び降ろす巫祝者をいうのだとも考えられます。つまり父が祖先の霊を継ぐ者であれば、母は祖先の霊を呼び出して祀りごとを行う役目を担っていたのではないでしょうか。女性を「刀自(トジ)」というのは家(戸)の主の意味であって、一家の先祖の霊を祀る者を意味する呼び方です。姉も「阿禰」と書き、もとは巫祝者をいう禰(ネ)を意味するのでしょう。 (左の写真は国立博物館(東京)の弥生女性展示像)

2016年5月12日 (木)

第19番目 二荒山神社

ニ荒山(フタラヤマ)神社は、男体山を仰ぐ日光の社と、宇都宮の社の両方が並存しています。日光のほうは、男体山がフダラ(補陀洛)山であって仏教の須弥山信仰の影響が濃く残っており、神仏習合後の祭祀と考えられます。延喜式では下野国河内郡1座のニ荒山神となっており、宇都宮のほうが古くからの祭祀場所であったに違いありません。

しかも、延喜以前にはニ荒(フタラ)神と呼ばれており、土地の豪族である下毛野(シモツケノ)氏が祀っていたものと考えられています。フタラ神とは塞(フタ)ぐ神であって、北のエミシの脅威に対抗する鎮守の神であったのでしょう。その後6世紀に、東国の総鎮守の聖地は鹿島香取に移ります。

Photo伝承では、アズマの毛野地域が仁徳天皇時代に2つに別れたとき、豊城入彦(トヨキイリヒコ)命の四世孫の奈良別を下毛野の国造に定めたといわれており、現在の祭神は豊城入彦命です。ヤマト政権から派遣されたといういわゆる四将軍のひとりである豊城入彦は、中央と地方を結ぶための便宜上の人物らしく、アズマの国々では各地の豪族の祖とされています。



毛野域が2つに分けられた事実に関係して、ニ荒山の神(ヘビ)と、赤城山の神(ムカデ)とが神いくさをしたとき、中央から派遣された鹿島神の助けでニ荒山神が勝利したと伝えられています。宇都宮神社は丘陵上にあって、遠く秀麗な男体山をみることができます。ウツノミヤという名も、宜(ウ)つの宮で、良いところにある宮ということなのでしょう。

Photo_12かっては、神社の4キロ南に奥津城と考えられる雷電山古墳(宇都宮市江曽島)という5世紀中ごろの全長230mの前方後円墳がありました。今は雷電神社が建っている場所にその形が残っているだけです(右の写真)。

その後、鬼怒(毛野)川と思川に挟まれた河内と呼ばれた地域の開発が進むに連れて、6世紀から7世紀にかけて中心がさらに南に下がり、8世紀に国分寺町付近に国府庁が建立されたとおもわれます。


下野(シモツケノ) みかもの山の こ楢のす まぐはし児らは 誰(タ)が笥(ケ)か持たむ (万葉集巻14-3424)

Photo_3 宇都宮から見る男体山(左側)

ニ荒山神社  宇都宮市馬場町

2016年5月10日 (火)

母の力

古来より一族の神を祀るのは女性の役割であり、それを家刀自(イエトジ)といいます。京都の梅宮神社は、光明皇后の母である県犬養三千代が祀っていた神を、同じく平野神社は、桓武天皇の母である高野新笠が祀っていた神を、平安遷都に伴ってヤマトからヤマシロへ移したといわれています。 

Photo_9また、半島や大陸から渡ってきた人たちの中にも母系家族の文化を持ち込んだと思われる例もあり、ヒメーヒコ制度だけでなく、オモチチ(母父)と万葉集の東歌に詠われているように、律令制の影響下で父母となる前には母が優先の呼び方がありました。

母の役割は、「神がかり巫女」から「子を産む性」までの広いものであって、もとより子孫継続が各氏族の正規であったため、子供の養育を中心とした共同体が繁栄した歴史が世界中でみられるのは当然のことなのでしょう。 (左は茨城県の大平黄金塚から出土の子を抱いて乳を飲ます埴輪)


母父(オモチチ)も 妻も子どもも 高高に 来むと待ちけむ 人の悲しさ (13-3337)

Photo_10とくにアズマ国の毛野では、一の宮の貫前神社の祭神が機織する女神であり、養蚕や機織は女性の仕事であったため、家刀自をはじめとする女性の地位が他の地域より高くなったとおもわれます。

有名な上野三碑のうち山の上碑(右の写真)には、母である黒売(クロメ)刀自が顕彰されており、金井沢碑は刀自たちによる先祖供養の碑で、刀自たちの母系氏族集団中の存在感が立証されています。

このように群馬県のカカア天下伝説は古代から続いているものであり、経済的な基盤に基づいた確固たる権威を誇ってきたのです。江戸時代になっても夫をみずから離縁した妻の話が残っており、伊勢や富士講を組んで家内労働を離れて旅行を楽しんだ農村の女性たちがいました。決して一方的に虐げられた存在ではなかったのです。むしろ明治時代以降に、皇国史観と共に良妻賢母の名のもとに上からの男尊女卑の教育が行われてきたのです。


真木柱(マケバシラ) ほめて造れる 殿のごと いませ母刀自(ハハトジ) 面(オメ)変はりせず (巻20-4342)

後の神道において女性を排除し始めるのは、古代における女性の巫覡の活躍に対する反動と考えてもよいでしょう。またケガレという概念から、女性の出産を忌み事としたと考えるのは間違った解釈であり、家を絶やさないために子孫を残すことが最優先であった時代には、ハレの場所としての産小屋を設けて非日常的に最善をつくして女性と胎児を守り、神の加護を期待したと理解するのが正しいのではないでしょうか。そして、後の武家社会でも産婆や乳母が高い地位を占めることが認められるのです。

2016年5月 6日 (金)

第18番目 赤城神社

赤城神社は、延喜式においては、上野(カミツケノ)国の22社のうちの貫前神社、伊香保神社と並ぶ明神大社の1つです。現在の祭神はオオナムチですが、古来は赤城山を神体山と奉った山麓の遥拝社であったと伝えられています。それゆえ、今は三夜沢の静かな場所が本宮ですが、二の宮とされている前橋市二ノ宮町の社は、近くには大室(オオムロ)古墳群があり、本来の遥拝所ではと考えられます。そして、赤城神社を祀っていた氏族が、上毛野(カミツケノ)氏だったのでしょう。上毛野氏は、勇猛であったらしく、白村江の戦いにも参加し、上毛野形名(カタナ)が東北のエミシを討ったという記録も残っています。

Photo_12

Photo_15古来、毛野(ケヌ)は関東平野西域に広がる大きな範囲であって、4世紀にはいくつかの小さなクニ(酋国)に分かれていたといわれています。それらクニが連携した結果、5世紀中ころに最高の権力をもったとみられる首長の墓が、太田市にある東日本最大の天神山古墳(全長210m、右の写真)です。すでに、ヤマト政権とも交流があったとみえ、アズマの覇者として君臨したと考えられます。6世紀初めの九州の磐井の乱のとき、鎮圧に向かった近江臣毛野という人物がいますが、その名前が毛野と名付けられたように、毛野は畿内の人々にも畏怖される存在であったのでしょう。



その後の毛野の地域では、たびたび内輪もめが発生したらしく、栃木のニ荒山と赤城山が争って、赤城山の神が負けたという伝説や、羊太夫がヤマト政権に討たれたという話や、垂仁天皇の時代に狭穂彦(サホヒコ)が謀反を起こしたため八綱田が討ったという記述、笠原直(カサハラノアタイ)氏が武蔵国造の地位をめぐって内紛を起こしたとか伝えられており、早くからヤマト政権が介入して武蔵国をはじめ上毛野と下毛野の国が設置されました。それでも、上野国には、かみつけの里博物館のある保渡田古墳群、綿貫古墳群、白石古墳群など数多くの前方後円墳が、5世紀後半から6世紀にかけて造成されており、7世紀の国府近くの総社古墳群まで継続して栄えた跡がみられます。

Photo 前橋市から見る赤城山

上野(カミツケノ) まぐわしまとに 朝日さし まぎらわしもな ありつつみれば  (万葉集 巻14-3407)

赤城神社 前橋市三夜沢町

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