妹(イモ)の力
妹(イモ)の力というのは、歴史学ではほとんど無視されていますが、民俗学で取り上げられてきた女性の役割を見直したものです。古くは卑弥呼に代表されるように、特に祭祀における巫女(ふじょ)の役割は重要でした。倭人伝に卑弥呼の女奴1000人と記述されているのは、邪馬台国内の各地のクニから集められた巫女たちであり、卑弥呼を長にして強力な女性の巫覡集団を構成したに違いありません。彼女らが力を発揮するのが他のクニとの戦いであったと考えられ、全員で敵に対して呪詛を行って勝利をもたらしたのでしょう。
歴史的な背景として、はるか中国のむかし、殷(商)の軍隊が戦う前に、「媚」と呼ばれた最大で3000人という多数の巫女が「望する」ことで呪詛を行ったという記録があります。そして負けた側の巫女たちは全員が殺されたのです。
特に近年に発見された殷の時代の墓の主は武丁王の妃(キサキ)の一人であった「婦好」という女性であり、13000人もの軍隊の統帥権をもった巫女でした。これも実際に軍事能力に長けたというよりも、シャーマンとして兵を鼓舞するカリスマ性をもっていたのだと考えられます。鼓舞とは、字のごとく太鼓をたたき舞踏することであり、信奉する神の力を借りて敵を呪詛し勝利に貢献していたのでしょう。(右の写真は婦好に与えられた鉞(マサカリ)、王権の象徴としてその象形が王の字となりました。)
わが国では、ヤマトタケルに付き添ったオトタチバナヒメや、ヤマト政権に叛乱した武埴安彦とともに戦ったアタヒメも同じ役割をしていたとおもわれます。卑弥呼のような巫女的女王は、日本の各地にいたと考えられ、九州では日本書紀で「女酋」と呼ばれた複数の女性首長がいました。さらに、ヤマトトトヒモモソヒメ、倭姫(ヤマトヒメ)、神功皇后(オキナガタラシヒメ)などはいうに及ばず、奈良時代の皇極(斎明)天皇なども巫女的な女王でした。他の集団と対抗するさいには、神懸りの力が必要だったのです。
下って、637年に上毛野君形名が蝦夷を討ったとき、その妻の支援で10数人の巫女が弓(あずさ弓)を鳴らして鼓舞したため勝利したと記録されています。各地の古墳に埋葬されている女性の多くは、このような巫女(ふじょ)であったに違いありません。(左の絵は中世のあずさ巫女)
梓弓(アズサユミ) 爪引く夜音の 遠音(トホト)にも 君が御幸を 聞かくしよしも (巻4-0531)
地方の氏族から選ばれて、中央の天皇や皇后の宮で仕えたという采女(ウネメ)も、単なる服属のあかしとしての人質ではなく、女性の巫覡としての役割があったとおもわれます。また男の天皇の王位継承のための、中天皇(ナカツスメラノミコト)としての女帝は、天皇の霊(チ)を継体させるための重要な役目をもち、皇極(斎明)天皇や持統天皇は、男の天皇以上に祭祀に明け暮れたといわれています。