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2016年4月

2016年4月29日 (金)

妹(イモ)の力

妹(イモ)の力というのは、歴史学ではほとんど無視されていますが、民俗学で取り上げられてきた女性の役割を見直したものです。古くは卑弥呼に代表されるように、特に祭祀における巫女(ふじょ)の役割は重要でした。倭人伝に卑弥呼の女奴1000人と記述されているのは、邪馬台国内の各地のクニから集められた巫女たちであり、卑弥呼を長にして強力な女性の巫覡集団を構成したに違いありません。彼女らが力を発揮するのが他のクニとの戦いであったと考えられ、全員で敵に対して呪詛を行って勝利をもたらしたのでしょう。

Photo_3歴史的な背景として、はるか中国のむかし、殷(商)の軍隊が戦う前に、「媚」と呼ばれた最大で3000人という多数の巫女が「望する」ことで呪詛を行ったという記録があります。そして負けた側の巫女たちは全員が殺されたのです。

特に近年に発見された殷の時代の墓の主は武丁王の妃(キサキ)の一人であった「婦好」という女性であり、13000人もの軍隊の統帥権をもった巫女でした。これも実際に軍事能力に長けたというよりも、シャーマンとして兵を鼓舞するカリスマ性をもっていたのだと考えられます。鼓舞とは、字のごとく太鼓をたたき舞踏することであり、信奉する神の力を借りて敵を呪詛し勝利に貢献していたのでしょう。(右の写真は婦好に与えられた鉞(マサカリ)、王権の象徴としてその象形が王の字となりました。)

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わが国では、ヤマトタケルに付き添ったオトタチバナヒメや、ヤマト政権に叛乱した武埴安彦とともに戦ったアタヒメも同じ役割をしていたとおもわれます。卑弥呼のような巫女的女王は、日本の各地にいたと考えられ、九州では日本書紀で「女酋」と呼ばれた複数の女性首長がいました。さらに、ヤマトトトヒモモソヒメ、倭姫(ヤマトヒメ)、神功皇后(オキナガタラシヒメ)などはいうに及ばず、奈良時代の皇極(斎明)天皇なども巫女的な女王でした。他の集団と対抗するさいには、神懸りの力が必要だったのです。

Photo_11下って、637年に上毛野君形名が蝦夷を討ったとき、その妻の支援で10数人の巫女が弓(あずさ弓)を鳴らして鼓舞したため勝利したと記録されています。各地の古墳に埋葬されている女性の多くは、このような巫女(ふじょ)であったに違いありません。(左の絵は中世のあずさ巫女)



梓弓(アズサユミ) 爪引く夜音の 遠音(トホト)にも 君が御幸を 聞かくしよしも (巻4-0531)

地方の氏族から選ばれて、中央の天皇や皇后の宮で仕えたという采女(ウネメ)も、単なる服属のあかしとしての人質ではなく、女性の巫覡としての役割があったとおもわれます。また男の天皇の王位継承のための、中天皇(ナカツスメラノミコト)としての女帝は、天皇の霊(チ)を継体させるための重要な役目をもち、皇極(斎明)天皇や持統天皇は、男の天皇以上に祭祀に明け暮れたといわれています。

2016年4月26日 (火)

第17番目 一宮貫前神社

一宮貫前(ヌキサキ)神社は、延喜式では甘楽(カンラ)郡の明神大社で、上野国の一の宮といわれています。貫前神社の前には、抜鉾(ヌキホコ)神社とも呼ばれており、貫前神と抜鉾神は別々の神とか同じ神とか説が別れています。この地域では、はやく5世紀には渡来人が入植しており、貫前神は、海の向こうからやってきた美しい織姫であったと伝えられています。

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Photo_3また、甘楽郡から別れた東側の多胡(タゴ)郡には、織裳(オリモ)、韓級(カラシナ)という郷名があります。特に、12月に行われる機織神事は、神社の由来を示すような内容で、若い女性が機で神衣を織り、仕上がった布を榊(サカキ)に取り付けて拝奉するものです。

つまり、ヌは布で、ヌキサキとは布をサカキ(境木、賢木)に取り付けてミテグラとする巫女が祀る神をいうのでしょうか。あるいは、古くは高位の女性を妃(キサキ)と呼び、彼女らは氏族の祭祀者の長であったと考えられます。

近くにある多胡碑、山上碑、金井沢碑からは、物部、磯部、鍛冶(カヌチ)、土師などの氏が在居したとみられ、地名に残る吉井氏は新羅の出身で、766年に一族193人が連(ムラジ)のカバネを与えられています。その奥津城と考えられるのが、藤岡市にある白石古墳群で、なかでも七興山古墳(全長145m)は6世紀における関東の最大の前方後円墳です。

我(ア)が恋は まさかもかなし 草枕 多胡(タゴ)の入野の 奥もかなしき (万葉集 巻14-3403)

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上毛野の国府があった前橋市の西側の榛名山(伊香保嶺)の山麓には、歌垣(カガイ)の場所があったらしく、万葉集にはこの付近を詠ったアズマ歌がたくさん残っています(上の写真は前橋からみる榛名山)。古来より、渡来人の技術による養蚕、機織などの産業の隆盛に加えて、交通の要所でもあったこの地域はたいへん栄え、多くの人々が交流し、若い人たちが集う場所も必要だったに違いありません。

伊香保嶺に 雷(カミ)な鳴りそね 我が上(ヘ)には 故(ユエ)はなけども 児(コ)らによりてそ (巻14-3421)

一宮貫前神社  富岡市一ノ宮町大字一宮

2016年4月22日 (金)

アヅマの国

東をアヅマと読むのは、日の明ける(上がる)ツマ(端)という意味からでしょう。西のサツマは、日の去る(下がる)ツマ(端)で、東よりも早い時代(邪馬台国のころ)からヤマト政権に懐柔、征服されたため地名が固定されたと考えられます。ヤマトからみて、アヅマが不破の関の東から始まり、足柄の関の東となるまでには、簡単にはいかなかった東征の事実が反映されているに違いありません。東(ヒガシ)とは、日向カシから、ヒンガシになまってヒガシとなったというのが定説です。西(ニシ)は、日のイ(去)ニシからだといわれています。

Photo_4弥生時代の後半ころから、中国の後漢書に記述されている「倭の大乱」の結果として、人々が東へ移動した形跡があり、尾張や三河からは相模へ、遠江や駿河からは武蔵へと避難したようすが関東地方の弥生遺跡の土器から判ります。神奈川県綾瀬市の神埼遺跡(右の写真)では、三河からの移住が確認されています。また、信濃や日本海側からは群馬県へ移住した人々もいたと考えられており、群馬県富岡市の中高瀬観音山遺跡は、山中にある弥生後期の高地性集落として有名です。

Photo 神埼遺跡の東海式土器

Photoその後、朝鮮半島で戦争があるたびに、海を越えて移住した人たちが入植したとおもわれ、半島南側の伽耶(カヤ)や百済の移民は西日本に多くみられ、半島の中部の新羅や高句麗から戦火を逃れてきた渡来人が、遠く日本海側から関東地域にやってきたのかも知れません。ヤマト政権がこの地域に大きな影響力をもち始めた5世紀よりも前に、すでに関東にはそれぞれは小さいけれど多くのクニがあって、地域の首長の保護のもと、広く交易が行われていたのではないでしょうか。(右は横浜市の弥生中期時代の環濠のある大塚遺跡)




庭に立つ 麻手(アサデ)刈り干し 布曝(サラ)す 東女を忘れたまふな (巻4-521)

足柄峠(日本書紀では薄日坂)で、ヤマトタケルが「アヅマハヤ」と三編唱えたという説話は、アヅマに棲むハヤトに対する「言向(コトムケ)」の呪詛であったと考えられます。ハヤというのは、神がかりの強さをもつという意味らしく、ハヤヒトは薩摩人に限らず、まつらわぬ反抗的で勇敢な人々のことでもあったに違いありません。

Photo_3国栖(クズ)という呼び方も、奈良の吉野の奥だけでなく、常陸風土記の中で地元の住民にも使われています。また、蝦夷(エミシ)のことは、飛ぶように山に登り、獣のように早く走ると畏怖の表現がされています。毛人もエミシと読み、ヤマト政権の倭の武王、つまりワカタケル(雄略天皇)が、「自ら甲冑を身に着けて、東の毛人のクニを征した」と誇らしげに申し立てていることが中国の宋書に記録されています。大阪に残っている毛人谷という地名は、エビダニと呼ばれています。(右は埼玉県吉見の古墳時代の横穴墓群)

2016年4月18日 (月)

第16番目 氷川神社

Photo_4氷川(ヒカワ)神社は、延喜式では足立郡4座のなかの明神大社で現在では武蔵一の宮とされています。古来は、名のごとく荒川の氾濫が頻繁にあったせいで、神社の付近には湿地帯が広がり、見沼(ミヌマ)という細長い池がありました。

現在の祭神は、オオナムチ、スサノオ、イナダヒメですが、江戸時代までは、正面に簸王子(ヒノオウジ)社、左に男体社、右に女体社が配置されており、古くから主神については論議があったようです。ヒノオウジとは霊ノミコであり、氷川とは霊(ヒ)の川の意味だったのではないでしょうか。つまり、荒川とも呼ばれた霊の川のほとりで司祭者のヒノミコが祀っていたのが本来の祭神であったのかも知れません。

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武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも 君がまにまに 我(ワ)は寄りにしを (巻14-3377)

Photo_7続日本紀には、767年に足立郡の丈部(ハセツカベ)直の不破麻呂が武蔵宿禰に改名し、武蔵国造に任命されたと記載されており、一族の家刀自(イエトジ)がヤマト政権に采女として重宝され活躍したそうです。さきたま稲荷山古墳から発掘された有名な国宝の鉄剣(右の写真)には丈刀人の首という銘があり、被葬者のオワケ臣が丈部直氏の一族の祖であるとすれば、前玉(サキタマ)神社には先祖(魂)を祀り、氷川神社には氏神を祀っていたのかもしれません。

丈部氏は、軍事的な部曲(カキベ)であるため物部系ともいわれ、5世紀末にヤマト政権の屯田兵として、この未開発の土地に進出し、利根川沿いに盤居する大豪族の毛野氏を牽制する役目を担ったのでしょうか。鴻巣の笠原にいた笠原(カサハラ)氏も武蔵国造をめぐって内輪もめをしたと記録されており、地域的には丈部氏と同族であった可能性があります。古くは笠原氏に主導権があったのが、後には丈部氏に移ったと考えられます。

氷川神社  大宮市高鼻町

2016年4月13日 (水)

さきたま古墳群

関東平野は縄文時代のころはかなり奥のほうまで海岸線が迫り、弥生時代でも荒川という名が示すとおり中央の大部分は氾濫原や湿地域が広がっていたと考えられます。そのため北端の山沿いには卑弥呼の時代に「毛」のクニが存在しており、はやくから中央のヤマト政権とも同盟関係があったと思われ、5世紀末にヤマトのワカタケル大王に屈服するまでは地域での覇権をにぎっていたのでしょう。

Photo_11右の写真は北から見たさきたま古墳群の航空写真で、一番下の整備された前方後円墳が稲荷山古墳です。
埼玉県行田市のさきたま古墳群中の初期の稲荷山古墳は全長が120mの前方後円墳で、ヤマトから派遣されて、毛のクニに対する橋頭堡として入植した杖刀人の氏族の長の墓だと考えられます。

晴れて国宝に認定された埋蔵品の鉄剣にはヒコ、スクネ、ワケ、オミなどの尊称あるいは称号が刻まれており、その子孫は「无邪志(ムザシ)」の国造として君臨していたはずです。


Photo_13当氏族の神を祀った前玉(サキタマ)神社(左の写真)は、古代には古墳群中の浅間塚古墳の脇に鎮座していたのが、ずっと後にいたり富士見山とみなされた円墳の頂上に移動して浅間神社とも呼ばれるようになりました。元の祭神は前玉ヒコと前玉ヒメと云われており、ヤマトの先峰としてのオワケ氏族の祭祀者である男女祝巫がサキノミタマを祀ったのが始まりなのではないでしょうか。



埼玉(サキタマ)の 津に居(ヲ)る舟の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね (巻14-3380)

2016年4月10日 (日)

第15番目 大国魂神社

大国魂(オオクニタマ)神社は、武蔵国の総社として一の宮から六の宮までを合祀した明治までは六所宮と呼ばれていた神社で、7世紀ころの武蔵の国府ができた後に創建されたと考えられます。本来なら、新しく任官した国司は六ケ所を全部参拝する必要があるのですが、国府の近くの1ケ所にすれば出費もかからないし、参拝頻度も高められるとしたのでしょう。

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その当時における一の宮の小野神社、二の宮の小河神社は、武蔵国が荒川を超えて開拓される前の、多摩川沿いに入植した氏族の神を祀った神社であったと考えられます。両方の神ともに国褒めの言アゲにより祀られていた産土神であって、入植地開発への貢献が認められて崇拝されたに違いありません。しかし、今では複数の小さな神社に別れており、元の場所や祭神が不明瞭になってしまいました。小河神社の河は、多摩(玉、魂)川をいうのでしょう。

多摩川に さらす手造り さらさらに なにそこの児(コ)の ここだかなしき (巻14-3373)

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明治時代の多摩川






三の宮は氷川神社(別項参照)、四の宮は秩父神社です。五の宮の金佐奈神社は児玉郡の明神大社で、採鉄、製鉄、鍛冶の技術をもった渡来人が祀った神であると思われます。六の宮の杉山神社は都築(ツヅキ)郡の小社で、鶴見川の流域にあったと考えられます。なお、大国魂神は延喜式には載っていません。すぐ南にある熊野神社古墳は、7世紀ころの上円下方墳で、国府に関係した人物の墓と考えられます。

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なお、日本書記によると、6世紀初めのころの安閑紀に、武蔵国造の笠原直使主(カサハラノアタイオミ)が同族の小杵(オキ)と相続で争い、ヤマト政権を味方につけた結果、上毛野氏に頼んだ小杵を討ったという記述があります。小杵一族の奥津城とおもわれる多摩川に沿った多摩川台古墳群などがこの後に終結し、新たに北武蔵のさきたま古墳群(5世紀末から6世紀末)などが盛大に築かれるのは、この事件が反映しているといわれています。笠原の名は、鴻巣市の笠原という地名によるものでしょう。(上の写真は多摩川台古墳群資料館の再現群像)

大国魂神社  府中市宮町

2016年4月 7日 (木)

足を使って神を呼ぶ

神を足(タラ)すと訓読みするのは、古代の巫祝が足を使った歌舞をして神を降すことに由来します。また、足を踏み固めて土地の神を鎮撫する神事も行われていました。「タタラを踏む」というのは、もとは足を大きく踏んで踊るような動作をいうのでしょうし、相撲の四股もなごりかも知れません。古式製鉄の鞴(フイゴ)をタタラと呼ぶのは、そのような足を使う動作から起因するのでしょう。また「跳」にはタタクとヲドルという訓があります。称(タタ)えるという言葉もそこから派生したものではないでしょうか。

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「タタ」とはたぶん擬声語で、その足を動かす動作は様々な舞踏となって残っています。神楽はもちろんのこと、歌舞伎でみる「六法を踏む」、能や陰陽道での「反閇(ヘンバイ)」、日本舞踊の「足拍子」などは今でも見られます。反閇とは「禹歩」とも呼ばれており、禹とは古代中国の洪水を防ぐ神であり、大掛かりな土木事業のために足が不自由となった様子の歩行描写ともいわれています。

Photo_6神話のなかでは天の岩戸の前で天照大神を呼び出すため、アメノウズメは足を踏み轟かせました。奈良の三輪山の故事として名が残るセヤタタラヒメやホトタタライススキヒメ、およびオオタタネコなども足を使った歌舞をして神を招く巫祝であったのかも知れません。また足名椎(アシナヅチ)命という神が長野県の足長神社に奉られています。やはり足を使った歌舞で神を降ろす司祭者が存在したのでしょう。


それゆえ、足柄(アシガラ)、足利(アシカガ)、足摺(アシズリ)、足羽(アスワ)をはじめ、アスカやアソなども足を使って神招ぎをした聖なる場所であったに違いありません。歩(アユ)む、遊(アソ)ぶ、県(アガタ)なども足(ア)が語源の言葉といわれています。

足柄の み坂恐(カシコ)み 曇り夜の 我が下延(シタバヘ)を 言(コチ)出つるかも (巻14-3371) 

Photo_2             上は足柄山から相模国を遠望した写真

「あしひきの」という山にかかる枕詞は、ヤマ(弥間)ということば自体が神聖な地域を表わしており、そこで足を摺るように歩くことにより地霊や国魂を呼び出し祭祀する行事に因るものなのでしょう。「歩」という漢字は足跡の象形で、やはり地霊を敬うための所作に由来すると考えられます。古代におけるヤマとは、見上げるような大きな山ではなく、神が降りる場所」であり、サトから容易に辿り着ける場所でもあったのです。そのため歌垣などが行われる聖地でした。大きな山はタケ(岳)といい高いと同系の言葉で、遠くから遥拝して近づくのを禁止した神聖な場所だったと考えられます。山登りする山岳信仰が行われるようになったのは平安時代以降だと考えられています。
 

2016年4月 4日 (月)

第14番目 寒川神社

寒川(サムカワ)神社は、延喜式の明神大社で相模国の一の宮です。祭神は寒川神(寒河神)の一座で、国分寺(国府)が海老名付近にあったにも関わらず、一の宮であることは、左牟加波と記述されている事実からみても、かなり古くから地域で認められた神であったことが判ります。

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現在の祭神は、寒川比古命と寒川比売命の夫婦神となっています。場所が高座(タカクラ)郡であるため、武蔵国の高麗郡に先立って渡来人が住み着いた可能性があります。サム川とは「澄(清)む川」という意味で、母音変換した結果でしょう。近くを流れる相模川が、古くはサムカワと呼ばれていたのかも知れません。

Photo_3当社の追難(ツイナ)祭は、一般的な豆で鬼を払うものではなく、弓矢を使う古式のものです。さらに、毎年1月8日には、「武佐(ムサ)弓祭」という斎庭にて弓矢でその年の吉凶を占う祭事が行われます(写真右)。ムサというのは、武者(猛者;モサ)のことであって、古来、アズマ地域を開拓するために多くの渡来人が、屯田兵の役目をするため送られてきた事実があります。

ムサの男(オ)は、益荒男(マスラオ)とも呼ばれます。とうぜん、その人たちは多様な技術(製鉄、機織)をもち、識字率も高かったため、後には防人として九州へ派遣されたり、万葉集の東歌に採択されたように高い文化水準を誇っていました。そして、元はムサと呼ばれていた地域が、ムサ上(カミ)とムサ下(シモ)に別れて、サガミ(相模)とムサシ(武蔵)になったという説があります。



相模道の 余綾(ヨロギ)の浜の 真砂なす 子らは愛(カナ)しく 思はるるかも (巻14-3372) 

5世紀のワカタケル大王(雄略天皇)に従った身狭(ムサ)村主青が、中国の呉に派遣されて機織技術者たちを連れ帰ったと記録があり、よく知られた宋書の上奏文を書いた人物ともいわれています。

神社の南東1キロのところには大神(応神)塚という前方後円墳が残っており、司祭者の奥津城という伝承があります。少し離れた東京の狛江にある6世紀初の亀塚古墳からは高句麗系の馬具が出土しており、寒川神社の設立も、5世紀後半までさかのぼれるかも知れません。

寒川神社  高座郡寒川町宮山

2016年4月 1日 (金)

お宮参りと犬

お宮参りは、人生で最初に神社で行う神事であり、誰もが経験しているはずで、全国的に行われています。そのとき、赤ん坊の健康な生育を祈って額に「犬」や「×」を赤字で書くのが伝統ですが、その字を避けて今では「大」や「小」とかに変わっています。

印文字はアヤツコ(綾子)と呼ばれていますが、アヤツコとは悪霊から身体を守るための避邪(魔よけ)を目的としたものであって、古代の中国から伝わった習俗です。「文」という漢字ももとは真ん中に「x」や「v」が入る象形であり、「爽」や「爾」は女性の胸に「x」を書き込んだ象形です。「彦」という字は、額に「彡」の印を入れた少年から青年への通過儀礼を示すものといわれています。

Photo_10 入墨は文身ともいい同様に魔よけの意味をもち、魏志倭人伝には「男子は大小に関わらず皆、黥面文身をする」と記述されており、漁民は水難からを身を守るために入墨をしていました。古代豪族の久米氏も「来目」とも書き、古事記には「大久米命の黥(さ)ける利目(トメ)を見てあやしと思ひて」と記述されており、目の周りに入墨を刺して呪能力を誇示する集団だったのでしょう。(左の写真は入墨のみえる埴輪)


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古来より犬は人間の感知しえない特別の呪力をもつといわれており、古代中国ではさまざまな場所において地鎮のための犠牲に使われたようです。漢字の「伏」、「就」、「器」などに犬の字が含まれていて、それぞれ、ヒトと犬、都の楼門に犬、4つの祭器の真ん中に犬をいっしょに埋めたと考えられています。



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日本では安産のお守りに犬が登場し、イヌの日に帯をし、イヌの張子人形を枕元に置いたりします。奈良の法華寺では、尼さんが手作りしたかわいい犬のお守り人形を売っており、年賀切手になったほど有名です。




九州のサツマやオオスミの隼人(ハヤト)は、「吠声」という犬の鳴きまねをする呪術的な防備能力を有するゆえに、平城京の衛兵として活躍しました。また、犬養(イヌカイ)氏は犬を連れて諸地域の屯倉(ミヤケ)の管理をした氏族で、ここでも犬は特別の待遇を受けていたのです。下は柿本人麻呂の詠んだ葬送歌と思われ、「鳥」や「休め」も部分が追悼で「茂き」が魂振の部分でしょう。

垣越しに 犬(イヌ)呼び越して 鳥猟(トガリ)する君 青山の茂き山辺に 馬休め君(巻7-1289)

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