2018年3月 4日 (日)

第59番目 西寒多神社

西寒多(ササムタ)神社は、延喜式の明神大社で豊後国の一の宮とされています。祭神のササムタ神は、元は大分川の支流である西寒田川の上流に立つ本宮山(607m)に降りる神のことであり、それを祭祀していたのがムタ(後の巫堂)と呼ばれる渡来系の巫覡だったのではないでしょうか。祭祀していた一族は大分国造(オオキタノクニノミヤツコ)と考えられ、ヤマト政権の命を受けて北九州東岸に入植した渡来人豪族のひとつかと思われます。Photo

Photo_4 北九州の瀬戸内側はトヨ(豊)の国と呼ばれ、福岡県の行橋から大分県の臼杵まで、古く3世紀末から5世紀前半までに畿内式古墳が築造されており、ヤマト政権の朝鮮半島への海上航路の掌握のためや熊襲との戦いに対する橋頭堡として海部や佐伯部系の氏族が入植した形跡がみられます。福岡県苅田町の4世紀初の前方後円墳の石塚山古墳、宇佐市の3世紀末の赤塚古墳、大分市佐賀関町の4世紀の猫塚古墳などが初期の畿内式古墳です。また、日本書紀の景行天皇紀には、豊前の宇佐、長狭(京都郡)から豊後の大分、速見、直入、大野と巡幸したと記述があります。(右は海部の首長の墓とされる亀塚古墳)

Photo_3 しかし、それら目的が一応達成された後は、半島の政情不安のたびに、技術をもった渡来者の入植が増えていったようです。大分国造も渡来氏族であったのかも知れませんが、その先進的な技術に基づいた開墾の業績が称えられ、その後裔という大分(オオキタ)氏は火君や阿蘇君と同祖であるといい、ササムタ神も明神大社として尊敬を受けるようになったのでしょう。九州の地域特性をもつ装飾古墳にも、渡来人や海人の影響がみられます。(左の写真は本宮山)

梓弓(アズサユミ) 引き豊(トヨ)の国の 鏡山(カガミヤマ) 見ず久ならば 恋しけむかも (巻3/0311)

西寒多神社: 大分市寒田 

2018年2月24日 (土)

第58番目 都万神社

都万(ツマ)神社は、延喜式では日向国の四座の小社のひとつですが、国府や国分寺が近くにあって日向の中心的な神社であったと考えられます。現在の祭神は、木花開耶(コノハナサクヤ)姫といわれていますが、別の名を神阿多津(カムアタツ)姫といい、阿多隼人が祭祀する神、あるいは、その神を奉る巫女である阿多津姫であったとも言えます。女性の祭神ということは、元より神奉りをしていたのが女性の巫覡であって、そのため祭神の名が伝承に残る上記の姫へと変わっていったのでしょう。

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ツマというのは端のことで、アヅマが日の上がる(明ける)ツマであり、サツマが日の下ぐる(去る)ツマをいうのでしょう。一番古いヤマト政権側の記録では、九州は筑紫国、豊国、肥国(火国)、熊襲国という4つの地域からなっていました。一説には熊襲はクマとソの2つの区域で構成されると云われており、日向はソの域内で、古くは児湯県(コユノアガタ)と呼ばれており、諸県君(モロアガタノキミ)という豪族が盤居していました。諸県君は、本来は熊襲の一族であったのが、はやく4世紀の末までにはヤマト政権に帰順して、県主(アガタヌシ)として九州平定に貢献したため、その独自の信仰が記紀神話にも反映される結果となったのではないでしょうか。日本書記には、諸県君牛諸の娘の髪長姫(カミナガヒメ)がホムダワケ大王(応神天皇)の妃となったと記載があります。諸県君は、後には日向国造となり、当神社の祭祀氏族として勢力を誇ったのでしょう。

Photo_2 近くには、大小311基もの古墳からなる有名な西都原古墳群(左の写真)があり、ほぼ古墳時代の最初から最後までの3世紀末から7世紀中ごろまで継続した様子がうかがえます。一番大きな前方後円墳は女狭穂(メサホ)塚で、全長が176mあり九州最大です。隣にある男狭穂塚と共に5世紀初めの築造と思われ、諸県君の父と娘の墓と推測しても時期的には齟齬はありません。ただ、古墳群が最初から最後まで諸県君一族の奥津城であったかは疑問が残ります。


都万神社: 宮崎県西都市妻

2018年2月17日 (土)

第57番目 鹿児島神宮

鹿児島神宮は、延喜式では鹿児島神社といい、南九州の日向、薩摩、大隈の3ケ国11座の中で唯一の大社です。現在の祭神は、天孫降臨神話の主役であるニニギ命の御子とされる天津日高彦穂穂出見(アマツヒタカヒコホホデミ)命を含めて複数鎮座しています。延喜式では1座ですので、さまざまな由来があったのでしょう。また、八幡宮とも呼ばれていましたが、八幡神は渡来系ですのでもとからの地域の神ではないと思います。

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Photo_2 鎮座する場所は、鹿児島湾の一番奥の地域で、付近には大隈国府がありました。カゴシマというのは、カグる島であって、つまり燃える島である桜島を指すのでしょう。贈於(ソオ)郡ができる前からこの地域には隼人最大の豪族であるソ(曾)の君が盤居しており、元の神はその一族が奉る神であったはずです。海洋民族として南北の外来文化に触れてかなり高い技術も有していたと考えられ、そのために中央政権からの干渉が絶えなかったと思われます。ソとは熊襲(クマソ)のソであり、神衣(カムミソ)と関係するとも考えられるでしょう。それゆえ宮中行事にも残るという隼人舞とは、伎楽に似た面を付け豪華な衣装で勇壮に舞うものだったのでしょうか。

隼人の伝承とされる有名な海幸山幸神話では、弟である山幸彦のホヲリが、兄の海幸彦のホデリの釣り針を失くし責められたけれども、塩ミツ玉と塩ヒル玉の呪力で兄に勝利したといいます。兄のホデリは「汝命の昼夜の守護人となりて仕え奉らむ」と降伏し、阿多隼人や大隈隼人の祖になったと記されています。兄弟ともに火(ホ)から生まれた隼人の奉る神であり、後に、弟のホヲリ命が本来は穀物神であるホホデミ命と同一視されたのかも知れません。

隼人(ハヤヒト)の 薩摩の瀬戸を 雲居(イ)なす 遠くも我は 今日(ケフ)見つるかも (巻3-248)

Photo_3 隼人は、もとは熊襲(クマソ)とも呼ばれた勇猛果敢な独立心の強い人たちであったため、ヤマト政権から異族扱いされ、たびたび叛乱を起こしたとみられ、鎮圧されるたびに他地域からの移住民が増やされて、八幡神などの別系統の神が奉られるようになったと考えられます。逆に、その勇猛さを買われて、中央へも移住されられて、ヤマトの宮城を守護する役目を司り、服従儀礼でもあった隼人舞が宮中行事として残ることになりました。

(左は桜島)

鹿児島神宮; 鹿児島県霧島市隼人町宮内

2018年2月14日 (水)

隼人(ハヤト)のはなし

古代の南九州の薩摩、大隈、日向に盤居した隼人や熊襲(クマソ)の人たちは、異族として扱われていました。しかし、人種的には他地域の倭人と変わるところはなく、備前風土記にも容貌や風俗は値嘉(チカ)島(五島列島)のアマ人に似るとの記載があり、海民の一種であったと考えられます。もともとクマとソ(自称か他称かはわからない)と呼ばれた地域に住んでいたのでしょうが、シラス台地といわれる地勢は耕作には不向きで多くの人口を養えない過疎地域であったため、半島からの影響が強い北九州に較べて、独自の文化圏を形成していたのでしょう。6400年前に鬼境島カルデラ火山の大噴火により一帯が壊滅状態になり、隼人はそれ以後に入植した人達だと考えられます。

Photo04 海民であっても数に頼れないため、北九州や瀬戸内海に出るかわりに、琉球、五島列島、韓国の済州島などの離島との交易があったのかも知れません。それゆえ、鉄製武具や馬なども当時の水準で揃えており、筑紫連合やヤマト政権の侵略軍とも対等に戦えたのだといえます。地域性の高い地下式横穴墓(右の写真)や板石積石棺墓も朝鮮半島文化との交流の影響だとも云われています。

熊襲(クマソ)と恐れられていた人々も、はやく4世紀末には部分的にヤマト政権に服従した人たちがいて、隼人(ハヤヒト)と呼ばれるようになります。ハヤとは枕詞のチハヤブル(霊ハヤ振る)という神がかりの力をいい、速玉神社や速谷神社などにも使われています。あるいは、後に隼人が近習として宮城を守るさいに犬の声を真似た吠声(ハイセイ)を使ったと伝えられるように、戦いのさいに大声で囃(ハヤ)したてて敵を威嚇する行為もあったかも知れません。

Photo_11(隼人の盾)

帰順した隼人はその戦闘力を買われ、飛鳥奈良時代には畿内へ移住させられて、宮城や要地の守備にあたったといわれています。宮中行事になった隼人舞は、元は服従儀式でもあったと考えられています。奈良盆地の南端の吉野には吾田(アダ)の鵜飼人として、南山城の大住(オオスミ)や河内の萱振(八尾市)などに住み、近衛部民として任務にあたったと記録されています。古事記には、反正天皇紀にソバカリという隼人が暗殺に加担したという記事もみられます。

戦前にいわれたようなインドネシア系というのは間違いです。数千年前には中国の長江流域にいた、青蓮崗文化、良渚文化、屈家嶺文化を担った人々の一部が、民族間の抗争に敗れて、あるものは南のフィリピン、マレーシア、インドネシアへと移動し、あるものは台湾から、琉球、日本列島へと移動してきたと考えられ、それらの文化が遠い記憶として残されており、言語や宗教観の点で似たような伝承があるため誤解されたのだと思います。

日本列島の文化は、新石器時代に始まった中国の諸文化、上記の長江域文化に加えて龍山文化、仰韶文化、大汶口文化、紅山文などが、北はオホーツク沿岸から、西は朝鮮半島や日本海を越えて、南は琉球諸島を経由して入り込み、時代や民族の違いにより複雑に混合した文化なのではないでしょうか。

2018年2月10日 (土)

第56番目 阿蘇神社

阿蘇(アソ)神社は、延喜式には阿蘇郡大一座小二座の健磐龍命神社、阿蘇ヒメ神社、国造神社と記載されています。もとは火の山である阿蘇山を奉拝した自然信仰から始まると考えられ、アソという地名も、アサ、アカなどと同じように燃える火からの連想であり、アサマが霊峰を示すのに繋がるのでしょう。祭神である健磐龍(タケイワタツ)命は、そそり立つ岩座(イワクラ)を意味するのかも知れません。Photo_5

Photo_6 古く隋書倭国伝には、「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり...」と記述されており、本来は火山神であったのが、後には農耕のための水源神へと変化して龍という字をあてたのでしょう。健磐龍命は一の本殿(左)に、阿蘇ヒメ命は二の本殿(右)に鎮座し、健磐龍命のほうが明神大社で阿蘇国一ノ宮となっています。すこし離れた場所にある国造神社の祭神は速瓶玉(ハヤミカタマ)命に御子であり、阿蘇国造家の祖であるとされていますが、本来は、健磐龍命を奉る巫女が阿蘇ヒメ命となり、祭祀に使う瓶(ミカ)も神格化したものと考えられます。

芦北(アシキタ)の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行(イ)かむ 波立つなゆめ (巻3-246)

Photo_10 この地域は弥生時代の後期ころから入植が始まって、当神社の祭祀者である阿蘇君(アソノキミ)は、地域の首長から国造(クニノミヤツコ)へと昇格し、国造神社という名前が残っています。阿蘇君氏は、神武天皇の子である神八井耳(カムヤイミミ)を祖とし、肥後の火君、豊後の大分君、筑前の筑紫三家などの豪族と同族であるといい、ヤマトの意富(オホ)氏とも関係をもっており、司祭系氏族であったようです。本来ミミ(耳)がつく尊称は、神の声を聞く巫覡(カンナギ)を示すらしく、聖という字にも耳が付いているのは太古からの伝承なのでしょう。古代の男子の髪形のミズラ(左の写真)も、元は耳を強調した結果なのかも知れません。

Photo_9 なお、沖縄の琉球王国では政治と宗教の一体化が長く続いたようで、男の首長を呪術的に支援する女性の巫覡が聞得大君(キコエノオキミ)と呼ばれていました。神の神託を告げて政治を補佐する重要な役目を負い、各村落にいる祝女(ノロ、右の写真)の頂点に立つ司祭者でした。私的な霊の口寄せをする巫女はユタと呼ばれ、東北地方のイタコを考えると、列島のそれぞれ北と南の端で同じような呪術的な習俗が残っているのは古代の祭祀方法の一端の名残りなのでしょうか。

阿蘇神社; 熊本県阿蘇郡一の宮町宮地

2018年2月 7日 (水)

第55番目 高良大社

高良(コウラ)大社は、延喜式では明神大社であって筑後国一ノ宮として尊敬されています。祭神は高良玉垂(コウラタマタレ)命で、筑後川を望む高良山(312m)の山上に鎮座しています。高良は高麗(高句麗)のことでもあり、百済に続いて668年に滅亡した高句麗に関係する人たちが祭祀する御霊を呼び垂らす巫覡の名称が神名に変化したのが本来であったのでしょう。また、摂社に水分神社があり、地名が御井(ミイ)であるところから、水の神にも関係するかも知れません。

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付近に御塚古墳や権現塚古墳を含む古墳群があり、古来より筑後川の下流の三潴(ミズマ)郡久留米周辺に番居した水沼(ミヌマ、水間とも)君という豪族の奥津城と考えられており、当神社も水沼君氏によって祭祀されていたと思われます。水沼氏は筑紫氏の支族であるらしく、一族内での忌部の役割をしていたふしもあります。それゆえ、元は水の神であった氏神が、後には人格神に変わったとも考えられます。6世紀の磐井の乱の後には、さらに宗像氏や物部氏とも関係をもって祭祀氏族として生き延びたと考えるのはゆきすぎでしょうか。

Photo_3 渡来人の入植者が多く、継続的に半島から新しい情報や物品が得られた筑紫の地域では、遠いヤマト政権に対してはたえず複雑な感情をもっていたとみられ、磐井の乱はその反抗心の表れなのでしょう。しかし、同時に地域内にもライバル意識が交錯しており、磐井の乱も当神社付近の戦いで一挙に終わってしまったと考えられます。最初、近江臣毛野が派遣されたときには、戦いらしい戦いは行われず、後に物部アラカヒがやってきて決着をつけたという記録からも、渡来系豪族同士のつながりが深かったと思われます。さらに、高麗の御霊を奉るようになったのも、戦いの後の鎮魂のためだとするのは深読みしすぎかも知れませんけれど。(上の写真は磐井の墓と云われる岩戸山古墳(全長約135m))

Photo_5 (磐井の墓の石人石馬)

高良大社 久留米市御井町

2018年2月 3日 (土)

第54番目 与止日女神社

与止日女(ヨドヒメ)神社は、延喜式では小社ですが、遣唐使の廃止の後に航海の神を奉る松浦郡の田嶋神社に代わって、備前国府に近い当社が備前国一ノ宮となったようです。祭神は与止日女神(淀姫、世田姫)ですが、ヨドとは人々が寄り集まる意味の寄処であり、たぶん市(イチ)が立つ神聖な庭で、神降ろしをする女性の巫覡をヨドヒメと呼称していたのではないでしょうか。

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佐賀平野の北端の背振(セブリ)山地沿いに、古代には官道(肥の道)が通っており、嘉瀬川(佐嘉川、川上川)と交差する付近に神社は鎮座しています。人々が集まり、水が集まって寄るため「淀む」という言葉が生まれます。ゆえに当神社は河上神社とも呼ばれており、水の神でもあったと考えられます。肥前国府は神社の南の川下にあり、多くの参拝客を集めたと思われます。また、官道を東へ行くと有名な吉野ヶ里遺跡があります。

初花の 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむころかも (巻4-630)

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九州一帯には、数多くの土着のツチグモ(まつろわぬ人々)が棲んでいたとの記録があって、女性の巫女的な首長も多く存在していました。肥前国風土記によると、佐嘉川の川上に荒ぶる神がおり人々を苦しめていたが、ツチグモであった大山田女(オホヤマダメ)、狭山田女(サヤマダメ)という賢女(サカシメ)つまり巫女的な首長の進言により、佐嘉県主(サカノアガタヌシ)の祖である大荒田が荒ぶる神を奉ったところ災難が収まり、サカシメから佐賀という地名ができたと記しています。

Photo_8 吉野ヶ里遺跡

サカ(サガ)の「サ」は神聖の意味で「カ」は処、というわけで坂や境は神奉りをする場所であり、阪という漢字のコザト偏は神が降りる梯子の形象といわれます。佐賀や大阪だけでなく日本国中いろいろな地名でサカという語が残っており、境港(鳥取県)、酒匂(神奈川県)、寒河江(山形県)などもそうでしょう。

与止日女神社; 佐賀市大和町川上

2018年1月31日 (水)

筑紫の大宰府

大宰府はオオキノミコトモチノツカサと訓し、最初は推古紀の604年に福岡市の那の津に近い三宅(屯倉)付近にあったと云われています。九州北部域は日本で最初のクニが生まれた先進地域であったため、豊かな古代の遺跡が残っており、大宰府が「遠の朝廷(トホノミカド)」と呼ばれたのは当然のことだったのでしょう(下の写真は大宰府跡)。

天(アマ)ざかる 鄙(ヒナ)に五年(イツトセ) 住ひつつ 都のてぶり 忘らえにけり (巻5-880)Photo

筑紫大宰(ツクシノミコトモチ)という官職が定められたのは7世紀の初めころとみられ、対外交渉が最大の役目だと考えられています。ミコトモチは元はミコトマチ(御言待ち)で神のお告げを唱える巫覡だったのでしょうが、天皇(オオキミ)の命令を告げる役人に変わったと思われます。

大夫(マスラヲ)と 思へる我や 水茎(ミズクキ)の 水城(ミズキ)の上に 涙拭(ナミタノゴ)はむ (巻6-968)

筑紫が筑前と筑後とに分かれたのは663年の白村江での敗戦の後で、同時に大宰府は現在の地に移されて、防禦のための水城(下の図)や山城が築かれました。当時多くの百済の遺民が渡来したようで、彼らの技術が水城や山城の構築に使われたのは言うまでもありません。百済を滅ぼした後に、新羅は唐への警戒から日本へ擦り寄ってきます。やはり唐という大国は東夷の国々にとっては非常な脅威でした。Photo

筑紫は上古にはツクシと呼ばれていたようで、神庭に植えた槻(欅)の心柱に関係があるかもしれません。ツキとは神が依り憑(ツ)く木という意味なのでしょう。タカギの神はその木に降りる神だと思われ、タカミムスヒ命として宮中にも奉られています。聖徳太子の父である用明天皇の宮は磐余池辺双槻宮(イワレノイケヘノナミツキノミヤ)と云われています。2本の槻の木が植えられた場所だったのでしょうか。

Photo_3 斎明天皇(皇極天皇)はアメノトヨタカライカツヒタラシヒメという和風諡名をもちますが、威(イ)かつ霊(ヒ)を神降ろしする巫女王でもあったのです。女帝は岡本宮から両槻(フタツキ)宮へ移りますが、亡くなったのは百済救援の直前に筑紫の朝倉宮だと云われています。同じ記述の中で「山の上から鬼が葬儀を見ていた」とあり、女帝が神がかりの力を有していたと周囲で考えられていたのでしょう。(右の写真は斎明天皇の御陵と考えられる明日香の牽牛子塚古墳の石室)

なお、魏志東夷伝の高句麗の項には「天を祭り…木隧(燧)を神座に置く」と記載され、馬韓の項には「ソトと呼ばれる聖地に大木を立てて鈴や鼓を懸けて祀る」と記述されています。また朝鮮の「三国遺事」という書には、檀君神話の中に「天神の子の桓雄が太伯山頂の神檀樹の下に降った」と伝えられています。

2018年1月28日 (日)

第53番目 筑紫神社

筑紫(ツクシ)神社は、延喜式の明神大社であり、現在の祭神は白日別(シラヒワケ)命と五十猛(イタケル)命とされていますが、イタケル神は、紀伊の伊太祈曽(イタキソ)神社の祭神であり、渡来神ともいわれており、後に勧請されたのでしょう。

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古事記には、九州(筑紫島)のことを「この嶋身ひとつにして、面(オモ)4つあり。面毎に名有り。かれ筑紫(チクシ)の国を白日別といい...」と記載されています。他の3国は、豊(トヨ)の国、肥(ヒ)の国、熊襲(クマソ)の国です。およそ大化改新の以前のころまでは、筑紫君(ツクシノキミ)が九州で勢力を誇っていたと思われます。筑紫君は、八女地域が本拠地であったらしく、5世紀にヤマト政権が朝鮮半島に兵を送ったころから力を伸ばし始め、6世紀中(527年)に一族の首長である磐井が反乱を起こしたときが最盛期であったのでしょう。乱の後、水間君や肥君らが影響力を増しますが、7世紀ころまで筑紫国造として勢力を温存していました。

思はぬを 思ふと言うはば 大野なる 三笠の杜(ミカサノモリ)の 神し知らさむ (巻4-561)

白日別とは元は一族の祭祀を取り仕切る長の名称であって、それが後に彼が奉っていた祭神の名となったとも考えられます。というのも別(ワケ)というのは神や大王のワキに随うという古い尊称と考えられ、古い天皇の称号にもワケが使われていました。12代の景行天皇はオホタラシヒコオシロワケ、履中天皇はイザホワケ、反正天皇はミヅハワケと記録されています。

祭神は古くは城山の山頂に祭られていたという伝えもあり、そこで神降ろしを行っていたと思われ、渡来人の多かった北九州一帯に広く信仰圏があったのでしょう。天孫降臨の一書にある、「筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂のクシフルタケ...」というのは、白日別が神を降臨させる場所にまつわる故事であったのかも知れません。筑紫の枕コトバである「シラヌヒ」も、シラヒの神と関係があるのでしょうか。

Photo_3 なお、神社のすぐ南にある五郎山古墳は石室内に装飾壁画(左の写真)をもつ6世紀後半の古墳であり、筑紫君の奥津城である八女古墳群には、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳(全長144m)を始め、九州で最も古い装飾古墳であるといわれる5世紀中ころの石人山古墳(107m)があります。



筑紫神社; 福岡県筑紫野市原田字森本 

2018年1月24日 (水)

第52番目 志賀海神社

志賀海(シカウミ)神社は、延喜式の明神大社で、祭神は古事記にも記載されている底津綿津見(ソコツワタツミ)、中津綿津見(ナカツワタツミ)、表津綿津見(ウワツワタツミ)の海神です。志賀海は、シカノウミ、シカノワタ、シカノアマとも呼ばれ、シカノワタツミと読むことができます。ワタツミとは海神としての漁民の神だっただけでなく、航海の安全を祈る渡(ワタ)しの神でもあったのです。Photo_3

ちはやぶる 鐘(カネ)の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(スメカミ)   (万葉集 巻7-1230)

当神社は、海人氏族として有力であった阿曇(アズミ、安曇)氏が祭祀する神社で、神社の鎮座する志賀島は現在は陸続きですが、元は島であって聖地であったと考えられます。シカというのは其(シ)処(カ)の意味であって、地域の誰もが認める聖地であったに違いないのです。それゆえ、あの有名な国宝の「漢倭奴国王」の金印が、辟邪のために埋められていたのでしょう。

阿曇氏の本拠地は、志賀島の対岸の糟屋郡の阿曇郷と呼ばれた地域であり、奴(ナ)の国があった場所と重なります。配下の海人のなかには、胸形(宗像)氏と同じように阿曇目と呼ばれた文身(イレズミ)を入れていた記録もあり、魏志倭人伝の「(水人)文身し亦以って大魚水禽を厭(ハラ)う」という記述が思い出されます。弥生時代にさかのぼる古い習俗を捨てない集団がいたのでしょうか。万葉集にも、志賀の白水郎(アマ)の歌がたくさん残されており、漁(スナド)りというのは「沈没して之(魚)を取る」という今のアマ(海女)の技術を言うのでしょう。

志賀(シカ)の海人(アマ)の 火気(ホキ)焼き立てて 焼く塩の辛(カラ)き恋をも 我(アレ)はするかも (巻11-2742)

Photo_4 本殿の横の今宮社の祭神は、穂高見(ホタカミ)命と阿曇磯良(アズミノイソラ)命です。穂高見命は信濃の安曇(アズミ)郡の明神大社である穂高神社にも奉られています。阿曇磯良(イソラ)とは、顔が牡蠣のように奇怪で、神宮皇后の航海の舵取りをしたという伝承がありますが、元は志賀島の磯で神祀りをする阿曇一族のオサ(長)であった司祭者の名称だったのかも知れません。その装束が、右の神功皇后絵巻に載る顔を隠し鼓をもち亀に乗った阿曇磯良の像が示すように、鼓を叩きながら神の降臨をうながすものだったのでしょう。

志賀海神社  福岡市東区志賀島

 

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